林檎を拾う未開人

 ドライアイに苦しみながら『トリストラム・シャンディ』を読んでいる。
 学魔のおじさんがいっていたように、ずいぶん回りくどい「道」だ。劈頭が掉尾を間違って食らってしまいそうなほど入りくんでいる。そもそもどれが頭で尻尾かわからない。
 18世紀のことなので、道といえば馬。訳者のまえがきに依れば、趣味・道楽の類は乗馬に由来してhobbyhorseと綴ったそうで。道と馬、やれわが意を得たりと、道楽の極北たるこんな道ならぬ道を、図と地の見わけもつかないお喋りをする馬の化け物がぱかぱかと駆けまわる、というお話。
 ナマグサ坊主に物語を語るつもりなんか微塵もなさそう。でも、そもそも小説なんてあらすじにまとめてしまえば何のおもしろみもないもの。あらすじならガイドブックを読めばわかる。
 フォスターのプロット/ストーリーじゃないけど、小説は物語のことではないんだな、と改めて思う。群れから逸れる、って大事なことだ。
 いろんな先生がしてくれた話で覚えていることといえば、これ、脱線ばかり。背筋のピンと伸びた騎手がサラブレッドに跨った輪乗りより、肩の力どころか、骨さえ抜け落ちた、「これ馬っぽいけど馬なのかしらん」、骨まで愛したいけど骨が見当たらない、そんな化け物が自由に這いずり回る、メクラ滅法野放図な「カラ馬」の脱線のほうが記憶には残るもの。ああ、そんな不真面目な海馬だから、肝心なことはなにも覚えていないというわけで。
 と、痛快な一方で、イギリスのこと、なんにもわかってなかったんだな、と少々打ちのめされた気分にもなる。
 ディケンズの演習(『骨董屋』だったかな)なのに、黒人のナニがいかに巨大か、について捲したてたりもする、あの先生の饒舌を思い出したりもする。ご著書の緒言もこんな感じではなかったかな、などと里心も一掬。
 本筋のフォローは、修正、というよりせいぜい弥縫に留めて、道なき原野を全方位的に突っ走って全方位的に風を感じることにしよう。