耽美主義的空間やデカダンの個室を完結させるのは、蒐集ではなく、選別ではないか、という話。もう少し連想を広げ、妄想を逞しくしてみよう。
そういえば『中世の秋』でホイジンガは、末期中世とデカダン文化の類似を示唆していた。ウォルポールを嚆矢とするゴシック小説、建築におけるゴシック・リヴァイヴァル、さらには19世紀欧米を貫く広汎な中世復古ブームを念頭におくなら、ホイジンガの直感はそれほど的を外してはいない、とわたしは思う。初期ワイルドや初期ユイスマンスに顕著な耽美・退廃の雰囲気は、近代以前に葬り去られた「中世的なもの」(当然ながら、中世に作られたもの、ではない)の選別によってちょうどいい大きさに成型され、成立していたのであろうか。中世的なもの、それは得体のしれないおぞましい夜*1。選別はそんなおどろおどろしい夜を、瞼のなかで飼いならす手段だったのではないか。
本来であれば理性的な判断のひとつであるはずの選別は、曖昧模糊とした不安の沼に棹さしている。19世紀全体をオカルトの世紀として読む浩瀚の書ユイスマンスとオカルティズム*2を少々敷衍するなら、やたらめったらと珍奇なものを集めるヴンダーカンマー志向の蒐集熱が、選別・廃棄の技術を伴うようになったのが19世紀という時代なのだろうか。これはまあ「趣味」を始めとする「美学」の爛熟とも大いに関係ありそうだが(ならば18世紀も範疇に含めなければ)、ユイスマンス本が中心に取り扱う流体などまさに変幻自在万物流転、とらえどころのない不安を呼び起こすものであり、だからこそ一部でカルト的人気を博することになる。指と指の隙間をすり抜けていくような把握しがたいもの。科学技術に目鼻がつき、細菌が顕微鏡に発見されてしまう理性の時代。視覚の解像度が増し、景色の画素数が急激に増していく時代だからこそ、見えないものに対する不安と関心はいや増していく。奴隷解放後の南部を跋扈する「血の一滴」の言説のように、疑似科学は科学の過信と共に、既存の科学への朧な不信感によっても支えられている。科学技術が進めば進むほど、おぼろげな対象を痙攣的な瞬きで切り刻み、眼路へと切り詰める選別は、強迫的に蒐集の裾へと追いすがる。
妄想的傍証を続けよう。認証技術の発展に監視社会の浸透(つまり統治の問題)ではなく、むしろあらゆる技術の進展に相俟って膨張する、自己の剰余に対する不安を読んだ指紋論 心霊主義から生体認証までも、捕捉しがたいもの、つかもうとする指のあいだをすりぬけていくものに対する不安を語っている。いみじくもバフチンはラブレー論において、中世・ルネッサンス的身体はラブレーの作品に顕著であるように伸縮自在で可変的だったが、上下の軸ではなく水平の線で時間を御していく近代に、身体は一定の輪郭へと固定化される、と論じた。バフチンに一理あるとするなら、変形や無形に対する不安は近代がもたらしたことになる。中世・ルネッサンス期の身体をスキャンダラスなものとして措定することで、近代的身体を合理化する。ちょうど中世以前の建築をルネッサンスびとが「ゴシック」と名付けたように、形式の成立に伴い、野蛮はある種の形式逸脱として指弾される。けれども、形式の成立はいつもそこからの逸脱に対する不安、つまりは形式の万能を疑う無意識をつくりだす。コルセットを嵌めてみて初めて、標準を外れることの不安は生まれるものだろう。嵌めたことはないけど。
<フォルム>はそれによって征服されようとし、時にフォルムに立ち向かう<コンテント>だけではなく、それとは無関係な<アンフォルム>なものまで呼び寄せてしまう。このように亡霊というものは、なにかに憑くことで初めて亡霊として現象するのではないかと思う、ってニーチェ=デリダの範疇にまで行ってしまいそうだ。道を外れすぎて犬の糞を踏みそうなので、道へ戻る。ただひとつだけつけ加えるなら、わたしの目に亡霊として映るのは、理性的なフォルムの適用によって野蛮と名指されたものではなく、当の理性的なフォルムのほうだ、ということ。
最初に戻ろう。デカダンの小宇宙は、確固たる輪郭と厳選されたコレクションによって成立する。しかし、デカダンそのものに狂気はない。そこから理性的に除外された戦没者名簿がデカダンの呪いなわけでもない。部屋のなかに残すものを選別する行為そのものが、デカダンにとり憑いてデカダンを「狂わしている」のではないか、というのがわたしの妄想的推論だ。だとするなら、それは今やすっかり慢性化したモダンの病でもあるだろう。いや、モダンというものがそもそも病的であり、亡霊であり、長い長い夜なんじゃないか、と思う。
蒐集ということでいえば、殺す・集める・読む―推理小説特殊講義 (創元ライブラリ)では19世紀以降の、おもに世紀転換期の推理小説と蒐集の関係についても論じてある。なかでも微視的な描写がコレクション癖と親和性をもつという高山の指摘は重要かもしれない。世界を切り分け、蒐集し、データベースを作り上げるホームズは典型的な蒐集する探偵だ。だが、蒐集があるからには選別もあるはずで、選別と分節がなければ、推理は犯行のアレゴリーとして完結しない。高山は蒐集そのものにマニエリスム的驚異と狂気を見出しているようだが、果たしてどうだろう。ドン・キホーテ的な文脈における蒐集と狂気の牧歌的な関係は、どこかで捻じれていってしまうのではないか。切断や断層とまではいかなくとも、どこかに窪みや溝ぐらいはあったのではないか。わたしの脳裏に憑いて離れないのは、商品が大量生産され、モノが大量に出回るなかで、蒐集より、蒐集したもののなかからどれを選抜するのか、という理性的選別が蒐集に予め内在する狂気を拗らせ、捩じり、ときには増幅させるのではないか、という憶断。それはわたしがとても苦手にしている片づけや整理整頓の問題でもある。*3あるいは蒐集する段階で、予め選別のフィルターがかかるということでもある。欲しいけどもうやめとこ、どうせ読めないじゃんそんなに、ということ。
コレクションはセレクションに憑かれている。
たとえば、本棚がそうだ。個人の本棚は理性に憑かれた狂いの、腑分けできない居心地の悪さをそれとなく仄めかしてしまう。
わたしは他人の家に行くと必ず本棚をみる。わたしとしては自分の知らない、新たな好奇心の火種となりそうな本がないかどうか物色しているだけ。でも、本棚の主は気恥ずかしそうに下を向いたり、所在なげに宙に視線を彷徨わせている。本棚の主は、本ひとつひとつを見られることに戸惑っているわけではないだろう。むしろ、本が並べられ、積み重なり、時には床の上に平積みにされた、そうした本の塊が、本棚の主の人に見せたくない意識や、あるいは自分自身よくわからない無意識を探られているような居たたまれなさを呼び起こすからではないだろうか。本のひとつひとつは、世に流通する商品の一部にすぎない。しかし、それらが誰かによって集められ、選別されてつくられる本棚は、もはや本の集積ではない。本棚は得体のしれない他者の面影を偲ばせる<貌>のようなものではないか、とわたしはときどき思う。
*1:史実の中世は夜の世界ではないというのは常識。中世がいかに賑々しく逞しく笑いに満ちた明るい世界だったかについては、洋の東西を問わず多くの考証が重ねられている。最近のものでいえば、メニッペア中興の祖、ラブレー研究の泰斗として知られる宮下志郎の神をも騙す――中世・ルネサンスの笑いと嘲笑文学は大変おもしろかった。
*2:著者はクリステヴァの指導を仰いでいる。神秘主義の文脈でバタイユを補助線として使ってしまう件や、やや牽強付会の感あるクリステヴァ理論の援用にはやや閉口したが、概して途轍もない仕事だと思う。世界広しといえど、ユイスマンス研究でこれほどの書物はないのではないか
*3:「ときめき」の有無でなにかを捨てられることくらい知っている。問題は「ときめき」の目の前にどうやって座ったらいいのかわからないということだ。