知識人の危機(了)

 

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

30年代の危機と哲学 (平凡社ライブラリー)

 
 「知識人の危機」

  1. http://d.hatena.ne.jp/pilate/20120124#1327418453
  2. http://d.hatena.ne.jp/pilate/20120126#1327551668
  3. http://d.hatena.ne.jp/pilate/20120131#1328033127 

 

 「ドイツ的大学の自己主張」(1933)での精神や存在は、ひとびとの滾った血を国家に鬻ぐための経絡にすぎなかった。「全体化」されてしまった精神や存在は、立体の「アーリア人」を幻視させる二次元の血統書のようなものだ。彼の「存在」に対する思索の真摯さとは裏腹に、あるいはその真摯さゆえに、「存在の危機」はもはや支えとはならない神の支柱のかわりに、純粋アーリア人駅への短絡路を敷設したかたちになってしまった。ハイデッガーの演説は、ヨーロッパを包摂していた危機の言説の危険な変種だったといえるだろう。
 しかしながら、就任後僅か一年でフライブルク大学総長を辞し、シュヴァルツヴァルトへ隠遁したあと行われたごく短いラジオ演説、「なぜわれらは田舎に留まるか?」(1934)でのハイデッガーは、平板化や全体化へ向かうイデオロギーから距離をとり、新たな「深淵」を粛々と穿ち始めているように、わたしには思われる。
 ハイデッガーは穏やかに語り始める。
 語る場所は、華やかなアカデミアではなく、彼の蟄居するごく小さな仕事部屋。
 話題は、彼の頬を叩き、わき腹を抉り、手を悴ませ、足を震えで包み込む厳格な自然について。
 散文的なアジテーションは霧消し、韻文的な感興が綴られる。ハイデッガーは、自らの<現存>を仕事部屋へと重ね、国家や民族のような巨大な妄念に<存在>の根源を求めるのではなく、手の届くところにありながらいつも隠された<存在>を田舎に広がる大いなる自然のなかに認める。
 そう、彼は田舎にある小さな室の小さな窓を解釈格子にし、気宇壮大となって狂奔する身の丈知らずの都会生活に新たな「危機」を見出す。神のいた空虚に忍び込むイデオロギーから離れる。精神=学問からさえ身を引く。口を吐いて出るのは、観念的な形而上学を示唆する言葉ではなく、「仕事」というごく倹しい言葉だ。*1 <存在>の根源を「私の仕事をする世界」である田舎へ求め、その牧歌的自然の深奥へと、ハイデッガーは「仕事」の測鉛を降ろしていく。
 田舎を舞台とした、「人智の及びがたい季節の盛衰」に岩や樹木、草地が抗するという構図のドラマが始まる。自然の事物たちは時間の流れに抗して「あの上のほうの日常的現存」を突きぬけて進む。おそらくは隠された「存在」へと。
 存在の探究は、自然の観察を介して行われる。思索はほとんど詩作のように綴られる。ハイデッガーの心変わりを物語る有力な物証かもしれない。しかし、自然の事物に寄り添う「仕事」が、「精神=学問」からどれだけかけ離れているかを思えば、ハイデッガーに芽生えた詩情もひとつの傍証に過ぎないかもしれない。
 

そしてしかも、これはゆっくり味わう者の沈潜やわざとらしい感情移入といった意志された瞬間にではなく、ただ固有の現存が自己の仕事のうちにある時のみ存在する。その時はじめて、仕事はこうした山岳の現実に対して固有の空間を開く。仕事をする道筋は、風景の生起のなかに沈んでいるのである。

 危機の言説にお馴染みの「精神」は、影もかたちもない。ハイデッガーは「意志」を退ける。あるのはただ<無為の仕事>であり、しかも仕事は自分ではなく、自分の周囲の世界によって導かれる。「精神」が、痩せさらばえたヘーゲル目的論の延命治療のために、死蝋化したギリシャへの回帰という甘いノスタルジアの迂路を選んできたのに対し、彼のいう「仕事」にはどこか苦さがある。
 「仕事」にもノスタルジアの匂いはある。悠揚迫らぬ老境の徒にとっては、田舎は都会の喧騒を離れ晩年の仕事を送るに適した終の棲家であろう。それにいつの時代においても、田舎は都会に比べると近代化の波に洗われにくい。だから田舎はいつもどこか懐かしく、都会で培ってきた時空間の感覚を淀ませてしまう。ハイデッガーもまたノスタルジアとは無縁ではないだろう。危機を叫んだ多くの知識人たちと同じように、彼もまた昔日のギリシャに思いを馳せたのだから。だから、田舎暮らしもまた別のかたちのノスタルジアだと、あるいは老いの兆候だと非情に突き放すこともできるだろう。
 しかし、老人の現実逃避にしてはハイデッガーの避暑地はあまりに寒い。なによりハイデッガーはこのとき45歳、脂がのりきっている。ヘーゲル史観に装着された人工呼吸器を剥奪し、自己にテロスではなく無為を強いるのだから、彼のノスタルジアは舌が痺れるほどに苦い。*2
 「言葉を鋳造する辛苦は、嵐に抗し聳え立つ樅の木の抵抗のごときものである」という自分に鞭打つ言葉を吐くハイデッガー老いの兆候は窺えない。むしろ、虚飾や名誉のローブを脱ぎ捨てて、いくらかフットワークに軽さが出たような感じすらある。シンプルに、身ひとつ、仕事をする。

 哲学という仕事は奇人の不自然な営為として行われるものではない。それは農夫たちの仕事とまったく同じものである。

 ハイデッガーは哲学を思索だとは考えていないようだ。哲学は高みに立つ芸当ではなく、地道に日々の糧を育て凌ぐ農夫たちと同じふつうの営みだ。哲学は「仕事」だ。
 しかし、どうやら「仕事」は絶滅危惧種のようだ。わたしには「仕事」をめぐって、危機が二重写しになっているように見える。

 都市世界は、破滅的な謬見に陥る危険に満ちている。きわめて声高で、活動的で、すべてを趣味化してしまう押しつけがましさは、しばしば農夫たちの世界とその存在を思いわずらっているかのように見える。だがそうすることで人々は、まさに現在必要なただ一つのことを拒絶しているのである。つまり農夫の存在との距離を保つこと、そしてこれまで以上に農夫の存在をその固有な掟に委ねること、言いかえれば手を触れないことだ――民族性と土着性についての文士たちのおしゃべりに農夫の現存を引きずりこませないために。農夫は、都会人の愛想のよさをまったく必要としていないしまた欲してもいない。しかし彼がまさに必要とし欲しているのは、彼の固有な本質とその自立に対する遠慮がちな調子なのである。

 まず危機の対象は、ヨーロッパ人一般、あるいはドイツ人一般から、「都市世界」へとずれている。そして他者を取り込み民族へと統合してしまう「おしゃべり」が、寡黙に仕事する農夫の世界の自律性を脅かしている。つまり、「仕事」の場もまた「都市世界」の圧力によって危機に瀕している。共倒れ。
 都市と田舎。
 ハイデッガーはヨーロッパ世界を都鄙のふたつに分割している。昔馴染みの二項対立のようにも見える。脱構築を待つだけの都鄙の対立。そう断じてしまいそうだ。習慣というものは恐ろしいものだ。しかし、なにかがおかしい。おかしい。なぜならハイデッガーは都市と田舎とのあいだに「関係」を認めていないからだ。「関係」がないところに対立はない。そう、これは「関係」を拒絶するために為された「分割」なのであって、二項対立ではない。*3ハイデッガーは田舎を、ひいては小さな部屋を渇望している。「関係」の鎖から完全に外れた仕事場を欲している。無垢の田舎を保存せよ、と言っているのではない。危機を回避するためには、「仕事」を為すべき場を確保すること、つまり危機を仕事場にまで持ち込まないことが肝要だということだろう。仕事場を守るために「分割」が必要だった。ただそれだけ。
 「関係」を拒絶することによってのみ「仕事」は為される。少なくともハイデッガーにとっては。
 ヴァレリーフッサールらヨーロッパ知識人の輪のなかにハイデッガーはもういない。もはやハイデッガーにとって、危機は「仕事」の対象ではなく、「仕事」を邪魔する騒音に過ぎない。
 
 
 マーシャル・マクルーハンの予言通り、世界が一枚の皮膚になってしまっているのだとしたら、わたしは世界を肌として眺めたい。そして毛の生えた黒子や痣やbirthmark、あるいは死斑でさえ肌へと意味づけし、世界の深さは測れなくとも、その厚さや薄さを、皺襞や肌理を語りたい。
 他者はいる。*4 しかし他者はわたしとは関係ない。わたしは他者とともに世界にいるだけ。
 さて、田舎もののわたしも仕事をしよう。

*1:ドイツ語では「アルバイト」なんだろうか。語感をうまく捉えられないが、たとえばこれはアレントのいう「労働」なのか、それとも「仕事」なのか。両者の区別はさて措くとして、わたしはハイデッガーのいう「仕事」を、観照的生活から身を引き剥がす「活動的生活」の一部としてひとまず解釈したい。考える大学人としてではなく、一介の働く田舎者として自らの社会的地位を表現するハイデッガーは、実体のない思索に根源としての身体を重ねたのではないか。

*2:あるいは農村生活の理想化に、マルクスレーニン主義的な原始共産制の理想化を重ねて、ハイデッガー左傾化を指摘することも可能かもしれない。ナショナリズム無神論からコミュニズム無神論へ。おそらくは危機の言説をどこまでも分析的に眺める限り、そうした言説のパラフレーズ、クリティカルタームのアレゴリーは数珠つなぎになって続くことだろう。けれどもハイデッガーによる訣別、世界を細かく微分的に区切り関係論的に思考するのではなく、世界そのものとしてつきあう彼の態度に、わたしはある種の未来を見る。関係なき孤絶。他者を他者として保存するための場所。

*3:ドゥルーズマゾッホとサド (晶文社クラシックス)が好個の例。バタイユもこれに近い。

*4:他人ではない。