日本vsイエメン戦。1−0。終了間際の我那覇のゴール。高地の影響やピッチの状態など実際に見てみるとそれほどでもないような印象を受ける。後半やや苦しい時間帯はあったかもしれないが、イエメンよりも日本のほうが全般的に動いていた。ピッチの状態も芝が生えているだけまだまし。昨シーズン(?)のCLのチェルシーvsバルセロナ戦に比べれば、ごく普通のピッチ状態(彼らはそんなピッチでも普段どおりの4次元サッカーを平気で展開していたが)。最初の10分ぐらいはトラップが浮いたりパスの強弱を間違えたりという凡ミスが多かったように思うが、次第に慣れていき、華麗なパスサッカーとは言わないまでも日本のテクニックはある程度表現できていたように見えた。むしろピッチ状態に気を使ってのことか、全く意図を感じないパスが減ったのは収穫。風の影響は多分にあったと思うが、それもハーフタイムにエンドを替えるサッカーのルールに即してみれば全くの五分の条件。
 では何が悪かったかといえば、ピッチに気を使うあまり、失敗を繰り返すのを恐れるあまり、丁寧にプレーしすぎたことかもしれない。はっきりいって、あのピッチでパスで崩すサッカーができるほど、日本の技術は高くない。バルセロナではないのだから。ある程度慎重に組み立てた上でテンポを変え、多少強引でも中に速くて低いボールを入れたほうがシンプルでよかった気がする。あのピッチ状態なので、相手としても、中に入られるのが一番嫌だった事だろう。サイドの崩しにこだわるよりは、思い切ってアーリークロスを入れた方がよかった。
 日本に対する批判として決定力不足という紋切りをよく耳にする。しかし、こればかりはどんな名監督でも克服するのは無理だろう。チャンスの作り方はいくらでも教えられるが、ゴールの決め方までは教えられない。ジーコがしきりにシュート練習を課していた姿が脳裏に浮かぶが、あれとて焼け石に水。結局、決定力を上げるには決定力の一番ある選手を監督が選ぶしかない。それでも点が取れなければ、チャンスをたくさん作るしかない。日本に89分休んでいても1分の仕事で勝負を決めるロナウドはいないのだから、1分だけ休んで89分走り回るしかない。結果、何本外そうと1本でも決めてそれで勝てればいい。決定力がないのであれば、決定力のあるチームよりもたくさんチャンスを作るしかない。オシムのサッカーは、決定力の問題をコロンブスのようなひらめきで解決する可能性を秘めている。
 とはいえ、そういうサッカーにカタルシスは求めづらい。見ている方は相当のドMじゃない限り、別のストレス発散の場を探さなくてはならない。じゃあ見るなよ、というのは、なしで。
 
 イエメンについてお勉強→http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A1%E3%83%B3


 [追記]
 徳山高専の一件で「週刊新潮」が博打に出た模様。加害者の顔写真と実名を公表。見てみたが、予想通りの無反応。それよりも被害者の殺され方が詳細に書いてあり、ご遺族の心中は察するに余りある。テレビや新聞が自主規制するのを批判する向きもあるが、世の中には知らなくていいこともある。ご遺族がそれをテレビや新聞で見聞きするのはあまりに辛い。興味本位で覗いてみて少し後悔した。加害者の顔写真と実名の公表には賛同するが、被害者に関わるそれ以外の情報はできるだけ慎んだ方がいいと私は思う。
 本日の毎日新聞夕刊で苅部直(かるべただし)が「心の闇」という表現を批判していたが、私はよく事件が起こるたびに犯人を評する「普段は普通の人」という表現が引っかかる。徳山高専の一件もそうだが、福岡で子供が3人亡くなった一件でも、容疑者は「普段は真面目」と評されていた。人間にひとつの顔しか認めないのは偏狭すぎる。それどころか全ての人間が「普段は真面目」なのに、ある瞬間に人が変わったように凶暴になる、という恐怖を煽るだけになる。妙ちくりんな精神分析医や犯罪心理学者(まともな学者は滅多にテレビにはでない)にいたずらに活躍の場を与えるだけなので、まず前提として人間は多面的だということをもう少し考慮して報道して欲しい。