死刑

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

死刑 人は人を殺せる。でも人は、人を救いたいとも思う

 主として死刑廃止派の取材を通じて、死刑について考察する本。「死刑をめぐるロードムービー」と銘打つだけあって、現在進行形で取材が進んでいくような臨場感がある。例によってウェット。好き嫌いは分かれるだろう。しかも死刑について考察するのに、存置派の取材は最後だけという偏りに不満は残るし、なによりも森達也の思想に終始ブレがなく、予定調和の観は否めない。
 けれども、接見を事実上廃止され、外部から見えない存在として余生を生きる死刑囚、ひいては死刑の制度そのものの不可視性こそが、死刑をめぐる最大の問題であることを指摘している点に関しては、評価できる。現時点では、死刑がどのようなものなのかよくわからないまま、安易な二者択一に走りざるをえないのが実情だといえる。存置にしろ廃止にしろ、議論を尽くすにはまず対象についてよく知る必要がある。その意味では、本書の貢献も決して小さくはない。
 ただ著者があまりにも感情に訴え、説得力を欠くのは残念な気がする。著者に共感して終わりになりそうな危うさがある。それが森のよさではあるものの、「死刑制度を整合化する最大の要素は論理ではない。情緒なのだ。」(244)と加速するあたりから、私などはやや置いていかれる。その少し前には、たとえばこんな箇所がある。
 

他には、そもそも国家とは、国民一人ひとりの合意によって形成された概念(フィクション)なのだから、そのフィクションであり合意の客体である国家に、たとえ罪を犯したとはいえ生きて呼吸をしている主権者である国民が殺されることを、論理的にどう説明づけるかという根本的な問題。あるいは刑務官や医師が業務で殺人行為に加担しなければならない矛盾も含めて、とにかく論理のレベルでは、死刑を存置する理由のほとんどは、論破されているといってよい。(241)

論理的には死刑廃止論は無欠に近い、と声高らかに宣言する割には、論理が甘い。死刑を遂行する国家をフィクションと断言するのであれば、死刑をフィクションとして捉え、死刑に処される死刑囚の死をもフィクションと捉えるのが論理的に正当だろう。森は、虚構がリアルな死をもたらす捩れを、論理的整合性を欠くものとして指弾する。しかし、それは死のみをリアルなものとしてロマン化し、リアルな権力を行使する国家を虚構として退ける、森の感傷のなせる業である。死がリアルなのであれば、それをもたらす権力もまた虚構などではなくリアルなのだ。国家をリアルな存在として認めて初めて、本書に描かれる死(刑)のリアルさをもたらす権力の布置を見つめることができるのではないか。死刑の存置か廃止かの決定は、リアルな実在としての国家に対する問いかけの延長線上にある、というのが、次の瞬間には別の問いへと裏返されるであろう私の解答である。