自由とは何か

 

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

自由とは何か―監視社会と「個人」の消滅 (ちくま新書)

 
 法哲学者による自由論。最近この手の本が多い。http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480063809/
 
 ミルやアレント、ルソーを経由するのは類書と変わらないものの、古典はできるだけ簡略にまとめて、現代の論客の論理展開を紹介する方に紙幅を割く。自由とそれに対する規制のジレンマを問題化するのは常套として、ユダヤ人の政治思想家アイザイア・バーリンによる自由の類型化、すなわち「積極的自由」と「消極的自由」に従って、自由と不自由の相克を整理していくところが特徴的。
 まず消極的自由は、強制の欠如として自由を位置づける。私が自由なのは、私を縛り付けるものがないから自由、というような論法で、自由の理由を他律的に思考する(liberty from)。信教の自由、居所移動の自由、表現の自由のように、他者に対して迷惑が及ばない限り、国家が個人の行為に介入することはない状態、強制の欠如を自由とみなす。ミルのいう「他者危害原理」もここに入る。
 対して、積極的自由は、「行為を決定できる干渉の根拠、私が何を為すべきかを誰が決めるかについての概念であり、自治・自律といった観念に深く関係するものとされる」(57)。つまり、積極的自由は、「私」を自己決定し、自己支配する主体として位置づける(liberty to)。この立場に立てば、社会のあらゆる(不都合なものも含めて)帰結が、個の自由な行為の結果として解釈される。たとえば、ルソーの「一般意思」。個々人の現実的利害関係に関わる世俗的な意思の集合「全体意思」に対して、ルソーは真の意思の集合「一般意思」をより高次なものと位置づけた。これに従えば、私たちが(全体意思のレベルにおいては)理不尽だと考えるような法も、隠された「一般意思」によって自由の実現として肯定される。もっと噛み砕けば、あらゆる法的制約(たとえば検閲とか)は、真の意思である一般意思に照らして創られたものである以上、「私」がそれに対してどのような考えを抱こうとも、「本当の私」はそれを進んで実現していることになる。アレントのいう「活動」や一見それと正反対のものに見えるルソーの「一般意思」は、共に積極的自由と関わる。反植民地主義闘争が軍事独裁政権樹立につながるのもよくわかる。今読んでいる『限界の哲学』を念頭に置いてみると、互いにちょっと理解が深まる(ような気がする)。*1
 その他の議論は、フーコードゥルーズ=ガタリ風の監視社会論、あるいはネグリ風のディフェンス/セキュリティ論、責任の事前/事後の問題などなどが続く。その辺に新鮮さは感じないが、復習には役立った。「アマゾンのお勧め本」のセンスにはたまに驚愕することは確かにあるものの、大体はずれなので、そんなに心配する必要はないと思う。監視社会論はどこで線を引くかが問題で、やりすぎるとなんでもかんでも監視だと恐怖を煽るだけになる。
 ところで本書中、最大の収穫は、Lawrence Lessigの「アーキテクチャー」。法・市場・社会規範と併せて4つの規制コードのうちのひとつ、アーキテクチャーは、主体の行為に先立って、主体の知らないうちにその行為を制限し、行為の可能性自体を奪うことで主体を支配する権力のこと。気付かないわけなので、自由を奪われているとは感じない。これに抵抗するためには、「人々の実質的な喪失の意識」が必要になる。
 もともと「アーキテクチャー」は、コンピューター・ネットワークにおけるプログラムの問題を念頭においた考察のようだが、本書では、ホームレスの居場所を制限するために公共の場に設けられたオブジェを例として挙げている。私なんかは、ドラクエを始めとするRPGなんてまさにそうなんじゃないかしら、と思ってみたり。プレイヤーは、自分たちの自由が制限されていることを意識せずにかりそめの自由を謳歌するが、実は設計上物語の進行にそって誘導されているだけだったりする。「アリアハン」(DQ3)は海に囲まれているのになんで船がないんだ、と一度は怒ってみるべきだ。いみじくも、オダジマンこと小田嶋隆は亀田騒動に際して「子育てはRPGじゃない」という名言を残しているが、亀田のみならずRPGのような「アーキテクチャー」に対して疑問を抱き、暗黙の制約に対する警戒を怠らないよう努める必要は確かにある。やりすぎると、パラノイア的になったり、安直な陰謀論に堕す可能性もあるけれど、アーキテクチャー、一つの視点としてはおもしろい。*2
 

 我々は知らないうちに、ある一定の行為可能性の枠の内側に閉じ込められているのかもしれない。その枠の内側では我々の行為選択に制約を加えるものはなく、我々は完全な消極的自由を享受できるとしよう。だが、これは本当に自由なのだろうか? もし我々がその制約の存在を知っていたとして、それでもなお我々の選択はそのような選択がない場合と同じだと知ることができるだろうか。我々は迷路に閉じ込められたマウスと、どこがどのくらい違うのだろうか?


Code: And Other Laws of Cyberspace, Version 2.0

Code: And Other Laws of Cyberspace, Version 2.0

*1:参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%88%E6%A5%B5%E7%9A%84%E8%87%AA%E7%94%B1

*2:環境正義に近い問題設定だと思う。