- 作者: 毛利嘉孝
- 出版社/メーカー: せりか書房
- 発売日: 2007/07
- メディア: 単行本
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ポピュラー音楽を切り分ける方法は様々あるけれど、本書が採るのは大衆音楽をひとつの生産様式としての資本主義が変容していく過程に置いて論じてみるというもの。枠組みとなるのはアドルノ。備忘録的に復習すると、アドルノは、ポピュラー音楽が体制の支配的イデオロギーにべったり擦り寄り、ただひたすらそれを表現し再生産するものとして批判した。その代表がジャズで、彼によればジャズこそがお約束に基づいていくらでも大量生産可能な規格化を特徴とする代表的なポピュラー音楽だった。規格化を原理とするポピュラー音楽は、体制に対して反逆しているように見せつつも、それに対して服従することを楽しむような奴隷的心性を再生産し、大衆を熱狂の下に体制の中に組み入れる装置として機能する。ナチスを経験したアドルノにとって、規格化の進行やある種のフォーマットが所与のものとなっている状況というのは憂慮すべき危機であり、ポピュラー音楽の登場はその危機を象徴するような事象だったということだろうか。
こうしたアドルノの批判を大きな枠組みとして、論が展開される。労働の効率化を推進すると共に労働者を生産者=消費者として市場に組み込むフォーディズムから、非物質的労働が中心となって市場を分割し、多用なライフスタイルを生産/消費するポストフォーディズムをずらっと概観。*1 ポップアートとポピュラー音楽の親和性を確認して、黒人音楽論に移行。ジョーンズのthe changing sameをもってきて、アドルノによるポピュラー音楽批判を批判する。それから、Jポップの分析に移って、最後に〆る。という構成。
特徴的なのは、ポピュラー音楽を超越的に俯瞰して資本主義への順応ぶりを嘆くアドルノの論を雛形にして、その内側からアドルノの論を内破していく展開。このへんが、まさにこの本をカルスタの教科書たらしめているところだと思う。大衆文化の研究は、大衆文化が世の中の流れに飲み込まれている、というのを引き受けた上で、抵抗や変革の可能性を探る。いきなり頭ごなしに、「騙されている」とがつんとやっても全否定に終わる。取り込まれているにしても、取り込まれているからこそできることがあるわけで*2、そういうところを肯定的に評価するのがカルスタの仕事ではないかと思う。そう考えると、この本は大衆音楽を頭ごなしに批判するアドルノの論を頭ごなしに批判するのではなく、むしろ逆手にとって論の基盤として据え、資本主義に取り込まれたポピュラー音楽を変奏しながら批判していく、という点で、カルスタの典型的な方法*3を踏襲したものであるといえるのではないか。その姿勢は、最後のページに凝縮されている。
蛇足だが、「サブカルチャーエリート主義」*4については耳の痛いところで、中学・高校ぐらいのときの自分には、まさにそんな傾向があったような気がする。「ミスチル? はあ? あんなおせえ音楽聴いてられるか」、てな感じで。ギターにキーボードが勝っていたりすると、もう聴かないというような感じで。つまるところ、私の場合ヘヴィメタ至上主義だったわけだけど。そういえば類推を働かせると、たまに、『IWGP』=大衆文学よりも『緋文字』=純文学の方がはるかに深くておもしろくて素晴らしい、とかのたまう方に出会う、というのもそうか。おもしろさの質が違うだけの話だろうに。
他では、 "Walk this way" の意義を再確認できたのも収穫。
*1:ポストフォーディズムの特徴として余暇と労働の区分の溶解、余暇を潜在的な労働の時間として組み込む、というのが挙げられている。理論的には理解できる。が、それが目立つ現象であることは認めるとしても、それほど支配的な現象だとは思えない。ある種の情報産業や特定の専門職にだけ見られる、かなり限定的な現象なのではないのか。というのは私の頭が古いのか。もちろん、著者自身が、労働と余暇の区分が溶解した生活を送っているというのは容易に想像できる。マッカネルの有閑階級理論なんかがもう古いのはわかるが、ここらへんはもうちょい詳しく読んでみないとなんともいえない。
*2:というか、資本主義に取り込まれていないと無邪気にいうのは難しい
*3:というか、今時特定のイデオロギーに根ざした批評(白人男性が書いたものは全部差別的です)なんて流行らないわけだから、批評をやるのであればまあ当然の姿勢なのだろうけど。
*4:流行や資本主義に毒されていない聖域を自分(たち)だけが知っていると思い込むイタイ病気。