不自由

 次の行はいつもまったく新しい一行。
 なにかを書く上で、新しさは自由とはなんの関係もない。自由というのは、原生林や白紙のことではなく、動物園やあみだくじのこと。視野の制限や選択肢が予めあってこそ、人はその檻のなかで自由を感じる。
 わたしにとって書くことはとりわけ不自由なことだ。
 わたしには<書く自分>が次に何を書くのか見当もつかない。いつも「おまかせ」。自分が書いた(はずの)文字列を読んでは眉を顰めたり、ひざを打ったりする。
 話すのもそう。TPOのフレームがある場合はともかく、縛りを解き放って喋るとき(相手はごくごく限られるが)、<話す自分>がなにを話すのかわたしは知らない。話しながら聞いている。いつも「出まかせ」。自分が吐いたはずの言葉を、目の前にいる相手と同じように聞いている。はあ、そんなことをわたしは考えていたのか、と驚き半分呆れながら。
 いつからなのかわからない。少なくとも10年ぐらい前には、自分が予め思っていたこととは違うことを書いたり話したりする自分に気づいた。だから、論文も書いてみるまでなにができあがるのかまったくわからなかった。自分で読むまで、質問されても答えられない。
 もちろん、書き始めたり話し始めたりする瞬間、頭のなかに予めコンセプトはある。けれども書いたり話したりする自分は、予断や予定調和を裏切っていく。何を書きたいか話したいかについては自分でもわかる。しかし実際に何を書くのか何を話すのかについては、やってみるまでわからない。どこからどこまでが自分のコントロールできる範囲なのか、まるで把握できない。
 論文を書いていたあの頃、出来上がった論文に、わたしは、見知っているけどどこかよそよそしい、ホラー映画の舞台となるマイホームのような「不気味なもの」を感じた。<読者>としてのわたしの仕事は、そのよそよそしい書きものを読んで校正するだけ。
 だから、書いたり、枷を嵌めずに話したりするとき、わたしは想像力の海に浸りながら溺れる。<書く自分>が、わたしをどこへ連れて行こうとしているのかわからないわたしは、親戚の家で寝室を借りるような居心地の悪さに喘ぐ。
 とりわけ、<読むわたし>と<書くわたし>の分裂について書くことぐらい不気味なこともない。悪寒がする。