スピヴァクを読む その3

 

 マルクスを読むスピヴァクを読むの続き。
 現代的な立場からマルクスを読み直すスピヴァクにとって、「労働価値」や「使用価値」がいかに交換の中で抹消されるものであろうとも、それらは「交換価値」の中に「亡霊」のように宿っている。「労働価値」や「使用価値」を消去するのは「交換価値」ではなく、それらを切り離して思考するマルクスだというわけだ。
 マルクスの哲学は、「交換価値」の世界である資本主義vs「労働価値」=「使用価値」の世界である社会主義という二項対立に基づいているが、よく知られているように、マルクスはこの2つの生産様式の外部を想定していた。「アジア的生産様式」というやつである。つまり、始めからマルクスの哲学は、西洋の外部を除外することで成立していたのである。スピヴァクは、このマルクスの二項対立を脱構築する。つまり、マルクスの資本主義批判は、資本という人間の労働を疎外するものを批判していたわけ(資本の自己増殖が交換経済を生み出す)だが、実はマルクス社会主義にも資本が必要だといっていたのである(このスピヴァクの読みはマルクス主義者にとっては誤読以外のなにものでもない。マルクスの二項対立は、むしろ資本主義vs(資本のない)共産主義だったからだ。しかし、スピヴァクの誤読はある意味マルクス「哲学」の「可能性の中心」を切り開いている。スピヴァクマルクスを経済学者として読むと同時に、非西洋を忘却することで成立する西洋の哲学者として読む)。ここにおいて、資本主義vs社会主義の二項対立構造は瓦解する。結局、スピヴァクは、二項対立的なマルクスの経済論を、その外部へと向けさせる。つまり、資本主義(第一世界)であろうと社会主義(第二世界)であろうと、資本を必要としている以上、第三世界にとっては同じことであり、「交換価値」と「労働=使用価値」を切り離しているのは、資本を必要とするこれら欧米世界なのである(第二世界が事実上消滅した今、今あるのは交換価値だけである)。この脱構築を通じて、スピヴァクは、現在第一世界の新たな植民地として交換の中で消えてしまう「労働=使用価値」を一手に担う資本を持たない第三世界を経済理論に組み込むのである。「労働=使用価値」を忘却した経済理論は、第三世界を忘却するも同然である。スピヴァクは、こうして第一世界において流通する商品に「亡霊」のような形で第三世界の「労働=使用価値」が宿っていることを確認し、第三世界を、そしてその中でも特に搾取されている女性を表象しようとするのである。
 貨幣第一主義は、株券や有価証券といった紙切れに価値があると信じる、妙な倒錯現象を生んでいる。実際問題、何かを生み出しているのは、農業や漁業といった第一次産業である。そして資本主義の進展に伴って、先進国では、第一次産業にも資本主義の論理が入り込み、モノ自体に全く敬意が払われない状況が進行している(ライフカードのCMはこの点で非常に逆説的だ。交換価値についてのCMで、交換不能なモノの価値を提示しているからだ)。そして第一次産業は、第三世界へと委譲され、第一世界を支配するのはそれこそモノや労働の存在しない交換至上主義である(CMにモノを作る労働者が登場するか。売り手側は使用価値や労働価値を見せたいわけではない。中田英寿中村俊介と同じモノがお金で交換可能であることを示せれば良い。ナイキの靴を作っている労働者が「30分かかりました、手に豆ができました、だからこの靴は最高に履き心地がいいです」と宣伝したところで誰が買うか)。今や第一世界内部の資本家/労働者の問題は、もはや資本主義しか生きる道はない以上それほど問題ではない。それ以上に問題なのは、第一世界そのものが第三世界に対する資本家として振舞う様である(ただし、第一世界の内部にもある意味第三世界が存在することを忘れてはならない)。生み出さなければ、交換はない。反対にいえば、資本主義に生きる以上、交換がなければ生産もない。生み出す人は、交換の中でどんなに消えていこうとも「亡霊」として姿を残す。交換の中で忘れ去られたようにみえるだけだ。「使用価値」=「労働価値」は、「交換価値」と一体のものなのだ。二者択一のものではない(モノ自体に価値があるか否かという問題ではない)。実は、スピヴァクが語っているのはこんな当たり前のことだったりする。要は、知識人が知識にまみれて世の中が見えなくなっているだけ。スピヴァクは、「知」の盲点を的確に突いている。
 意味の問題も同じことだ。今や、記号を構成しているシニフィアンシニフィエの結合は完全に破砕し、何かを指し示すシニフィアンの機能(signification)だけが問題になろうとしている。しかしそうしたシニフィアンの連鎖の中にも、シニフィエは「亡霊」として宿っている。問題は「亡霊」を無視することにある(シニフィエを「亡霊」とは見なさない態度は、それ以上に問題だ。そういう態度をとる旧石器時代人は構造主義にまで立ち返って考える必要がある)。「亡霊」は実体ではないが、それでもそこにあるものである。ポストモダンが批評の実践の中で忘れていったのは、「亡霊」の存在だ。「亡霊」を名指すことは、それを実体として捉えてしまうことと同義ではない。「亡霊」の変わりつづける姿を追うことは不可能だ、と匙を投げるのではなく、それを追いつづける姿勢の大切さを、スピヴァクは一番語りたいのかもしれない。
 Paul Gilroyは、スピヴァクの姿勢を本質主義だと批判する。ギルロイは、同時に(全ては文化的構築物だとする)構築主義も否定し、「亡霊」としての本質と構築物との関係を見定める反・反・本質主義を(anti-anti-essentialism)を提唱しているが、私の見たところ、スピヴァクギルロイは、同じ立場、「亡霊」を認める立場にいるように見える。