Audrey Hepburn: The Paramount Years

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現代アメリカ知識人論―文化社会学のために

現代アメリカ知識人論―文化社会学のために

二十世紀

二十世紀

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

女学校と女学生―教養・たしなみ・モダン文化 (中公新書)

 
 「安全弁」理論というものがある。特に19世紀以降のアメリカにおける西部開拓路線を形容する用語として用いられることが多い。もっとも、理論というには単純すぎて、実際のところほとんどメタファーに近いと思う。要は限界近くまで成員を抱えてしまった社会ないしは共同体が、その外部に余剰を放擲することで生産性を確保するというのが大まかな大意であり、つまるところ何のことはない「ガス抜き」と同義である。
 アメリカ史におけるフロンティアの役割は、「明白なる天命」とセットになるこの安全弁理論をベースに思考されてきた。東部に充満した移民のエネルギーを西部開拓のダイナミズムへと逸らす。ターナーのフロンティア消滅宣言がセンセーショナルだったのは、アメリカの発展はこの安全弁としてのフロンティアが有効に機能している限り続く、という信仰が揺らいだからだ。もっとも、西部開拓が一段落したとしても、アメリカは米西戦争を契機として更なる外部を目指して植民地の獲得に精を出したり、都市にニュー・フロンティアを見出したりすることで、依然として開拓精神を国家発展の原理として持続し続けた。もちろん、この「安全弁」を担ったフロンティアは、アメリカ精神の充足を甘んじて受ける空白などではありえず、そこは他者(自然やインディアン、その他)との闘争の場だった。一方、フロンティアに進出していく側も、移民や貧困層の人々が中心で、イスタブリッシュメントなどではもちろんなく、そこから洩れ出る「ガス」に他ならなかった。「明白なる天命」に代表されるアメリカ的開拓精神を推進した人々は、実際のところ、そのアメリカ的なものから零れ落ちる「ガス抜き」の対象、つまりは余剰に過ぎなかった。アメリカ史は、こうした余剰同士の葛藤を本体へと吸い上げ、ほとんど両者を確信犯的に混同することで構成されてきたといえる。その混同による捏造を正すのが、近年の政治的批評の眼目となっている。
 アメリカ史一般だけではなく、奴隷制史においても、安全弁理論は依然影響力を保っている。奴隷制に適応できない「不良品」をその外部へ逃がしてあげることで、奴隷制本体を安全に保つ、という理路がこの奴隷制版安全弁理論となる。実際に奴隷制がまだ存続していたころ、奴隷所有者たちは逃亡奴隷を連れ戻すのに様々な手段を講じる一方で、沼や森林などプランテーションの周囲に隠れて生活する逃亡奴隷たちを半ば黙認していた。奴隷所有者たちにとって脅威だったのは、個々の単位で行われる逃亡(本当はある意味集団的)ではなく、徒党を組んでの一斉蜂起だった。逃亡奴隷による安全弁は、プランテーションを、ひいては奴隷制そのものを安全に運営していく上で、欠かすことのできない消極的な解決法だったということになる。
 奴隷制史における奴隷の抵抗を評価するに当たり、奴隷制に対する脅威だった一斉蜂起に比べると、必然的に逃亡は低い評価に留まる。所詮、逃亡は、奴隷制に対する消極的な処方箋でしかなく、ドラスティックに状況を一変させる特効薬とはなりえない。多くの歴史家は、逃亡奴隷が残した記録や毛細血管状に張り巡らされた地下鉄道、そして暗語や音楽等に対する文化的影響を考慮しつつも、逃亡を政治的行為として評価するのには慎重になる。逃亡の評価に対する歴史家の歯切れの悪さを目にするたび、文学者の逃亡賛美を思い、なんだかなあ、という気分になる。やはり、逃亡はシステムに対する直接の打撃であるというより、連帯を生む点(もちろん家族や恋人を置いて逃亡する場合、それはある種の断絶をも伴う)に焦点が当たるべきだと思う。逃亡奴隷の連帯=断絶を政治的なポテンシャルの観点から評価をするという回り道を経ないといかんなあ、と。歴史学にとっては難しい課題だろうが、私のようなアウトローは、歴史小説であっても歴史を書いているわけではない文学テクスト(歴史はフィクションだという意見はあるし、それを認めつつも、所詮ディシプリンは異なるので)における修辞の政治性を評価していくことになるので、安全弁に対する対案提出も可能かと。まあ、オチを探すのは毎度のこと苦労します。