アメリカのスポーツと人種

アメリカのスポーツと人種

小泉政権―「パトスの首相」は何を変えたのか (中公新書)

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歌姫あるいは闘士 ジョセフィン・ベイカー

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世界たばこ紀行 (TASC双書)

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 あえてリンクは示さない。読んでいる人は何のことかわからないだろうけど気にしない(もとより自分の思ったことを漠然と書き連ねる場所ではあるけども)。もともと分野外の人間だし、所詮は触発・感化されたレベルでしか語れない。けれど、羨ましいなあ、と率直に思う。私の周囲では、なにやらかん口令が敷かれているかのごとく、「そういうこと」について考えることは禁忌とされている。現実的にそんなことをいちいち考えるのはしんどいことだし、日々の雑事に忙殺されている多くの人にとって、そんなことを考えるのは無駄そのものだろうとすら思う。そんな暇があったら研究書の一冊でも、論文一枚でも書け、というオートマティズムへの隷従が常である。けれど、本当にそれは無駄なことなのだろうか、といつも思う。学会に出て発表を聞くたびに、論文を読むたびに思う。結局、(好きな対象について)知ることの追求は悪いことではないのだろうが、それに理解したり考え直したり考え方が変わったりする経験が伴わないと、あんまり知る意味もないのではないか、と思う。もっとも最近は、そういう体験をすることが仕事に追われまくっている現場の人たちにとってどれだけしんどいことなのか、少しはわかるようになった(私も保守化しだしたのだろうか。え、ウソ!)。発表の準備に追いまくられていた、とある先生の話なんか、特に悲惨だった。発表に十分な時間を割いたり、論文を何度も推敲できる身分にいる学生に、そんな状況を批判することなどとてもできない。せいぜい非難にしかならない。だから、私に言えることは、学生のうちに、「そういうこと」についてできるだけ考えておく必要があるということ。というより、かなりの高確率で、学生のうちにしかそんなことはできないかもしれない、という危機感を持っておくこと。少なくとも「そういうこと」について考えたことがあるかどうかというのは、どんな忙しい環境にいても刺激的な論(タコツボの外にいる人をも呼び込むような論)を提出できる人になれるかどうかを分けるポイントであるような気がする。自分が何をやっているのか、それはどんな問題なのか、どんな意義があるのか、意義がないのだとしたらどういう風に開き直るのか、あるいはどのように意義を持たせるように努力していくのか。問題意識を持っている人、あるいは現在は時間がなくてなかなか問題意識を意識することはできなくとも、「そういうこと」について考えたことがある人の書いたものは、序論を読めばすぐわかる(言い切っちゃっていいのだろうか)。何が違うかについてうまく表現することはできないけども(お、うまく逃げた)。こういうことって、例えば、こういう世界から逸れていく人間にとっても重要だったりするわけだし。逸れていくにしても、何も学ばなかった、と開き直るのはあまりに芸がない。「そういうこと」を考えたせいで逸れていくにしても、「そういうこと」から学んだことはたくさんあるはず。って、まるで私が逸れていくみたいに聞こえる。ある意味、もうとっくに逸れているのだけども。