英文読解術 (ちくま学芸文庫)

英文読解術 (ちくま学芸文庫)

変な映画を観た!! (ちくま文庫)

変な映画を観た!! (ちくま文庫)

 朝刊スポーツ欄でウッチーが特待生問題についてコメント。そもそも一部の限られた身体技法だけを優遇するのはおかしいのではないか、人間の体には数値化できない、市場経済とリンクしない身体技法がたくさんある(例えば合気道)、特待生問題は一部の身体技法を特権化することと関連している、うんぬんかんぬん。確かにそうかもしれんが、数値化できない身体技法をどのように可視化するのか(無理でしょう)。つまるところ、本音は身体技法を数値で分節化する特待生制度は廃止せよ、というところにあるのだろう。もちろん、そんなことは無理だとわかってらっしゃるようで(数値主義は社会の一部だけではなく、全体を構成しているのだから)、本音を引っ込めて、せいぜい数値主義に対して難癖をつける程度に留めておられる。
 数値主義的な身体に対して、拝金主義や市場経済から無縁で健全な身体能力を「生き延びる能力」として理想化するが、それって何が面白いのか。いや、そういう見方こそ、「スポーツ」に毒された見方なのだよ、と反論を受けるだろうが、そもそもスポーツ的にスペシャルでスペクタキュラーな近代的身体を否定して、古武術的な前近代的身体を称揚することにどんな意味があるのかわからない。少なくとも庶民にとって、スポーツ的身体は市場経済から無縁の身体ではないか。だって、「ジャパニーズ・ビジネスマン」は、日頃世知辛いビジネスの世界で格闘し、帰宅後、ナイターやサッカー中継を見たりしながら、ビジネスの世界を忘却するわけでしょう。少なくとも庶民にとっては、スポーツは市場経済の外部にある、という信仰に支えられている。しかも、メディアがこれだけ多様化して隅々まで張り巡らされている現状からいって、今や身体技法っていうのは、(主体的に参加するものというより)一般の人が楽しんで見る対象、つまりスポーツ(sport)になっている。その現状をことごとくひっくり返すかのように、数値化されたスポーツを観戦するのではなく、前近代的身体技法を実演することに対抗的意義を見出すなんていうのは、所詮は慰めに過ぎないのではないかと。
 とはいえ、スポーツに毒された私たちの身体に対する眼差しを疑え、というのは、論理的に理解できる。スポーツを見る側に立つだけなら、「そんなこと考えるかよ」と言いたくもなるが、実際、学校教育の場において「体育」という別名を戴いたスポーツをあり難く実演させていただいた経験上、300メートル泳ぐテストやただひたすら運動会の種目を練習する授業、極めつけはスポーツテストが、心身の健全な発達どころか「錆び付いたハート」と「やけに健康的な身体」という心身二元論的状況を生んでいることは(少なくとも個人的には)否めない。スポーツを疑う理由は山のようにある。ただ、スポーツは疑いながら受容する対象ではない。スポーツを楽しむことができるのは、それが無垢であり、純粋である、という信仰が続く限りにおいてである(スポーツをしているときや観戦しているときに、「あの選手の身体技法は拝金主義的だ」とか考えない。考える人はそういう仕事をしている人か、もしくはスポーツが嫌いな人に限られる。そういや、ウッチーってラグビー以外のスポーツが嫌いとかいってなかったっけ。でもなんでラグビー?)。人種主義や性差別主義、ナショナリズムがスポーツに内在しているというのは否定できない事実だろうし、それに関してスポーツに疑義を差し挟むことに遠慮は要らない。ただし、そうした「疑い」は信仰を(断続的に)持続させるために行われるべきであって、信仰を幻想として「破壊」するような暴挙であってはならない(だって、スポーツがなくなって、古武術だけの世の中になるなんて想像できないし)。
 ウッチーの場合、身体能力の数値化という「誤解」を糾弾するだけで、それを改善するつもりはまったくないように見える。ただひたすら、出来事の外部から「生き延びる身体能力」の優位性を説くのみである。挙句の果てには、フィギュアスケートを「美しい」ものとして情動的に受容する一例(たぶん、教え子?)に数値主義に対する倦厭感が見られる、と自説を無理やり補強しようとする。フィギュアの「美しさ」は採点によって数値化されている以上、私たちの「美しさ」の基準もそこから無縁とはいえない。30位のずっこけた選手の演技の方が、イナバウアーのお姉さんのそれよりも「美しい」と断言する観客がいるかどうか。ウッチーが崇拝する前近代的な身体能力、「生き延びる身体能力」も果たして数値主義的な身体感覚から本当に無縁なのか。どうも、私には、出来事の外部から疑う立場は、所詮出来事を破壊するだけで、自らもまた当事者であるという内部観測的視座を欠いているように見えてしょうがない。ウッチーの論を見ていると、どうも自らの拠って立つ基盤の上に「建て増し」しながら、それ以外のものを幻想だとして退けるような暴論が時々目に付く。時には思い切って「建て替え」も必要なのではないかと、しみじみ思う。なるほど、ウッチーの部外者的な立ち位置に私は違和感を感じているのか、とここまで適当に書き綴ってきて気付く。もっとも、自分の過去の文章を読み直して「なるほどそうだったのか」とかいう人だから、もともと自己批判とかあまり期待してはいないし、それをやるとあの素敵なのんべんだらりとしたテンポも狂ってしまうだろうしね。はっ、いかんいかん、空気を読んで読まなくては。いや、大好きなんですよ。いやよいやよもすきのうち、ってことで許してチョンマゲ。