アパルトマンとオルセーを線で結んでみよう。印象派の殿堂からエッフェル塔まで、セーヌの左曲がりが描線の痕を継いで、大通りが鉄塔を凱旋門へとディアゴナルに繋いでくれる。へとへとになりながら、無名戦士の墓からアパルトマンまで足跡のような破線を散らせば、典型的な一日と平行にはならない四辺形のできあがり。
もとを糺せばすべてはトマス・ジェファソンに帰せられる。アメリカが生まれたのも、南北戦争が起こったのも、第二次世界大戦で勝ったのも、20世紀が終わったのも、金の指輪に呪われるのも。
セーヌの左岸にトマス・ジェファソンはぽつねんと立っていた。
わたしは横断歩道を渡った。トマス・ジェファソンと橋を見た。女がやってきた。黒々とした髪、黒いダウンジャケット、青ざめたジーンズ。女は歩道のうえで屈んだ。たちまち浅黒い笑みが浮き上がる。金の指輪がアスファルトから生えてくる。女の笑みにモナ・リザのような謎などない。見え透いている。あまりに。眼には善意が金歯のごとく光っている。そして金の指輪はわたしに向かって差し出される。
パリコレの街はゴールドラッシュに沸いている。
この日のわたしは6回ほど金の指輪が地面から生えてくる瞬間を目撃した。そして6回とも金の指輪の施しを遠慮した。もったいないことをした。
けれどもわたしの慎み深さの賜物だろうか、凱旋門の地下、暗い通路であやうく財布をすられそうになったが、まさに財布が宙に浮こうとした瞬間に財布と目が合い、スリの被害報告を『地球の歩き方』に投稿せずに済んだ。いや、きっとノートルダムの高僧が唾でも吐き捨てたおかげだろう。アーメン、ラーメン、冷そうめん。
パリ。
治安はローマと肩を並べるほどにすばらしく、おまけにたくさんの錬金術師が街中で施しを行い、いつも悲劇の首根っこは未然にとり押さえられる。その御心は、セーヌ川の水面のように澄んでいる。太陽の照り返しが川の面を洗っている。底は見えない。
わたしはソローやルソーのようには歩けないし、「群衆のひと」にもなれない。ただバルザックのように、ひとや街を眺めることはできる、かもしれない。