ジョイスの迷宮

わたしはジョイス学者ではないし、イギリス文学者でもないのだけども、どういうわけか近年ジョイス関連の方々と縁がある。ご恵投賜った。ジェイムズ・ジョイスの短編集『ダブリナーズ』刊行百周年を期したジョイスの罠―『ダブリナーズ』に嵌る方法(こちらについてはツイッターのほうで呟きっぱなしになっている)に続き、今度は『若い芸術家の肖像』刊行百周年を記念した論文集の上梓となる。本書は、「ジャパニーズ・ジェイムズ・ジョイススタディーズ」(JJJS)と冠された叢書の第一弾でもあるらしい(Jが多いからといって「ジョジョ」の係累と勘違いするなかれ)。ジョイス研究という、門外漢からするとやや敷居の高い専門領域の門戸を、近接領域の専門家や市井の愛好家にも開放しよう、というジョイス協会の「一般意志」がその背景にあるものと勝手に想像する。
実際、最初に『肖像』の構成とあらすじ、登場人物相関図(小林広直・南谷奉良・金井嘉彦)が整理されているし、また巻末には『肖像』に関連するテーマ・作家・時代に関する詳細な解説がついている。『肖像』についてなにか論じたいことがあってもどこから手をつけてよいのかわからない向きは、本書を手にとれば基本的な情報から先行研究の流れまでだいたいのことはわかるようになっている。先行研究の蓄積が膨大にある場合、専門外の人間はえてして迷い箸に陥る。結局、コンパニオンや事典をいくらか当たって、おそるおそる舌を湿らせるのが普通だ。しかし『肖像』の場合、そのような心配はもういらない。本書はずばり、居酒屋『肖像』常連客がクオリティを保証した、いちげんさん向けのビール・つまみのセットのようなものだと思えばよい。さすがに「センベロ」とはいかないが、納豆やエスカルゴのような舌を選ぶ珍品ではなく定番の品が並んでいる。舌が馴染めば通えばよい。また隣の喫茶『ダブリナーズ』には『罠』という定番のセットがすでにあるわけなので、そちらに行ってみてもよい。このような親切さがまず本書の売りである。
もうひとつ、『罠』と同様、『迷宮』も執筆者全員がすべての原稿に目を通して互いの意見を積極的に盛りこむという方針が採られている点も特筆に値する。こうすると通常は査読のない(品質保証のない)論文集に査読のメカニズムを入れることになり、各論の水準は一定以上あることが(少なくともジョイスの専門家によって)保証される。また論文集にありがちな、各自好き勝手に論じたばらばらの論文が一冊のなかに入っている、という決まりの悪さも解消し、総論としての、一冊の著書としてのまとまりも得ることができる。とりわけ、それぞれの切り口や経路の違いはあれど、『肖像』全体の包括的解釈を志向する、という共通理解は徹底されている。ジョイス学者のあいだでまだ合意のできていない部分はきちんと各論どうし相互参照されており、齟齬を取り繕おうという欺瞞もない。この人文学風前の灯火の時代に、作家単位の学会を運営・維持するという困難なミッションを念頭に置くなら、学会のありかたを再考しわかちあっておくことは、ジョイス協会ならずとも必須となるだろう。学術のありかたが多様化する現代において作家単位の学会という「反時代的な」組織の存在意義を真摯に問い直すとき、『罠』と本書の形式はひとつの範型となる。
以下、各論の内容と書評子の見解・批判を述べていく。批判は「一切の遠慮を排して」「自由に行って下さい」、という言質はすでに得ているわけだが、これに甘えるわけにはいかない。わたしの批判(クリティーク)は論者個人に向けたものではなく、学術活動全体に向けたものであるという点をあらかじめご了承いただきたい。個人に発した言説を個人に宛てて返す意図はない。それは内輪に閉じた私的な交友だろう。公的な学術活動はさまざまな学者が連帯(応答)責任を構成する共同体を想像することによって初めて可能となる。論を公表した個人が自らに可能な限りの責任をもつのは当然のこととして、それ以外の研究者はこの責任を個には帰さず、これを個人には負うことのできない連帯(応答)責任へと開いていくのが学術的に真摯な態度である、とわたしは信じる。公的な学術文化、あるいは「学問の共和国」(the republic of letters)の末席を汚す人間としては、どこまでも拡大する連帯(応答)責任のもとに、公刊物中の弱点であると同時にポテンシャルとも捉えうる要素を照射することこそ、個人になしうる最大の学術的な貢献であると考える。
屋上屋を重ねる。わざわざ書籍という形で学術的成果を「公」に問うというふるまい(publication)に今日もなお意義があるとすれば、これを専門外の他者に、あらかじめ予想のできない他者に宛てる場合なのではないか、と近頃思う。専門に根ざしつつその成果を使って専門に属さない人々を誘惑し、巻きこまんとする営みとして、学術出版は構想されるべきではないか。誰に向かって、どこに向かって出版するのか。「公」とはなにか。学術出版の意義を考え直すべき時が来ている、とわたしは思っている。
堅苦しい前置きが長くなった。以上のような問題意識のもとに、わたしが書評を書いていることをご了承願いたい。なお以下のわたしの書評のなかに誤謬があれば、それはひとえにわたしの無知や見識の狭さ、偏見に由来している。言い訳の余地はない。忌憚ない批判を賜りたい。

第一章 「おねしょと住所――流動し、往復する生の地図」(南谷奉良)は、おねしょという生理現象の記述を、芥川龍之介がいうような子ども時代という一時期の感性をリアリスティックに描写したものではなく、作品全体を貫流する「流動性」の起点として読解する。さらにはこのおねしょは、もうひとつの主要な運動原理である「往復性」とも関連していることが明かされる。
ヴィクトリア朝に発達した衛生観念が穢れを罪の象徴とするキリスト教の教えと合流し、20世紀初頭におねしょは「罪の小川」として語られていた。とはいえスティーヴンのおねしょ自体に罪はない。屋外便所の溝に落とされた経験やドブネズミの描写と、地獄の説教における「悪徳の不潔な流れ」との密接な関連性に鑑みると、無垢な少年が褥を濡らした経験は遡及的に「罪の小川」の源流として位置づけられていることになる。その他にも濡れたり湿ったりしているものや流れるもの、それからおねしょに特徴的な快/不快の持続的推移は、さまざまな場面で万物照応の関係をつくっている。このようなスティーヴン固有の生の感覚である流動性の原理の向こうを張るのが級友や国、陣営をわかつ「線」であり、また自他の区別をつける「切断」行為である。(無)意識の流れに代表される想像的な領域と、世界を示差的に理解する象徴的な領域の両立をここに見ることができる。
ただし、往復性を扱う四節以降は、物語構造における「上昇と下降のパターン」や往復運動、前進、キアスムに紙幅が割かれ、流動性/切断の力学については論じられない。「父・母・母・父」という交差配列的な枠構造を指摘する論には一定の説得力が認められるが、おねしょに淵源する流動性ではなく、おねしょの記憶に伴う母の存在を枠構造の解釈に利用してしまうと論の構成上、流動性と往復性の関係はどうなるのかわからないままとなる(特にヴィクトリア朝におけるおねしょの言説についての議論は完全に忘れてしまう)。おねしょから論じるのではなく、作品の構造における運動をさまざまに検討し、この始点におねしょの場面を位置づける、という構成をとってみてはどうだろう。というのも本章を一読した限りでは、おねしょの場面そのものにはその後の作品のなりゆきを決定づける予兆といえるほどの強度は備わっていない。むしろその後の小さなさまざまな描写の積み重ねが遡及的におねしょの場面に予兆としての「資格」を与えている。流動性の原理は、往復性の原理によって源流へと差し戻される。流動性の原理に身を任せどんぶら河口まで下ると、往きて還るべき源流のありかを往復性の原理が指し示す、というのは穿ち過ぎだろうか。いずれにせよ、おねしょは乾ききってから「地図」をつくるのだから、しっかり乾ききるまで見届けるべきだろう。
第二章 「『若き日の芸術家の肖像』における音響空間」(平繁佳織)は、現象学者ドン・アイドの「知覚される音」と「想像上の音」という聴覚経験の分類を用いて、スティーヴンの成長と音響空間の関連性について論じる。
『肖像』にはさまざまな音風景が描きこまれている。背景をなすリズミカルな雑音はただの描写ではなく、ある音が後続の音の予兆となるようなかたちで互いに響きあい、作品全体の基調を成している。このような「知覚される音」とスティーヴンの内面にこだまする「想像上の音」とのあいだには交渉がある。平繁は世界からの呼びかけに対して受け身になるだけではなく、これと「想像上の音」である内なる声の双方に耳を傾け、後者を現実に発声して世界に応えてみせるスティーヴンの姿に芸術家としての成長を読む。
※まず「知覚される音」には「家族からの、そしてナショナリズムからの呼びかけ」(アルチュセールを想起するところだろう)もあると本章では指摘されている。当然これらには政治的な含みがあるように思われる。「外から響いてくる声を退ける、もしくはその声に沈黙させられてきたスティーヴンが、外界とのある種の調和を経験し、内なる声を表現することに成功した」ことを平繁は評価するが、むしろ外界の声と内なる声との不協和こそ問題にすべきなのではないか。そして内/外の音が心地よい和音を構成せず居心地の悪い不協和音となるところに、スティーヴンの発声の意義はあるのではないか、とわたしは考えてしまう。次に、ドン・アイドの概念使用に関して。アイドの「知覚される音」と「想像上の音」は、視覚中心に展開されてきた西欧の批評体系に対する異議申し立てを使命とする概念である、と平繁は序において論じている。アイドの概念を用いるのであれば、その問題意識を引き受ける必要はないだろうか。たとえば第五章・横内の論を参照して、視覚について論じる先行研究を批判しつつ聴覚論を展開するのであれば、アイドの概念を利用する必然性も明確になるだろう、と思う。
第三章 「自伝性と虚構性の再考――『若き日の芸術家の肖像』におけるずれた時間軸の狭間から」(田中恵理)は、自伝的小説『肖像』とジョイスの実人生とを丹念にすり合わせ、両者の時間的ずれに注目する。
従来『肖像』には飛翔と墜落を繰り返すパターンが見られると指摘されていたが、田中はジョイスが実人生のエピソードを意図的に再配列して、『肖像」の「上昇と下降の波動パターン」をつくりあげていると主張する。スティーヴンの気分の浮き沈みをなぞるこの構図は、オズワルド・シュペングラーの『西洋の没落』にみられる有機的な生成と没落を繰り返す循環的歴史観とも共振するという。具体的に「上昇と下降の波動パターン」を物語において実現するのは語りである。『肖像』では語られる対象である作中人物の話法が語りに侵入する。そのため語り手はスティーヴンの願望の介入を受ける。かくして語りは、スティーヴンの幻想的な時間意識と現実の時間とのあいだにアイロニーを宿すことになる。伝記でもまったくの創作でもない『肖像』は、このような構造的アイロニーの結晶として理解できる。ジョイスの自伝的事実と『肖像』の展開を詳細につき合わせた年表を含む、大変な力作である。
※一般的な話をすると、時間的なつじつまが合わない小説というのはよくある。単純に作家のミスであることも多い。田中はこれを作家の過失ではなく、企みであると積極的に評価するわけだが、わたしとしては、作家は作品に対して全能ではない、という立場をとりたい。とんでもない過失が芸術的価値をもつこともある。そのような偶然性や出来事が介在する余地を認めるのも、文学研究の一部であろうと考える。ただ作家の意図の問題は抜きにして、「上昇と下降の波動パターン」と実人生とのずれを詳細に記述したことそれ自体に学術的価値はあるのは間違いない。次に、シュペングラーの『西洋の没落』がこの「上昇と下降の波動パターン」の霊感源であるという指摘はにわかには信じられない。循環的な歴史観に関しては太古よりおなじみのものであり、たとえばバフチーンのラブレー論はこの伝統を論じた著作の代表格である。循環的な歴史観は、近代以前の時代、とりわけ中世やルネッサンスにおける時間意識、というのが通説だろう。田中がシュペングラーとの影響関係の証左として持ち出すジョイスの論考「文芸におけるルネッサンスの世界的影響力」のタイトルひとつとっても(内容までは知らない)、同時代のテクストとの近さだけに頼るのは危険だと思われる。もう一点、スティーヴンの幻想的な時間意識が語りのなかにおいて「実際の時間とはかけ離れた幻想として揶揄されている」という指摘は首肯できない(アイロニーは「揶揄」ではない)。「実際の時間」の虚構に対する優位性を前提してしまうと、ジョイスが自伝的整合性を犠牲にしてまで「上昇と下降の波動パターン」という意匠を形成した、とする自らの説を突き崩してしまうことにならないか。
第四章 「〈我仕えず〉、ゆえに我あり――間違いだらけの説教と狡猾なスティーヴン/ジョイスの戦略」(小林広直)はアーノル神父による地獄の説教の構成、およびその説教にただならぬ恐怖を覚えつつもその論理矛盾に気づいてもいるスティーヴンとそれを描くジョイスの狡猾さについて論じる。
まずアーノル神父の説教はピナモンティ『キリスト教徒に開かれた地獄』(1688)の英訳版に基づいていることを明らかにした先行研究に依拠し、いかにこの説教が原典を裏切っているかを解説する。そのうえで、この神父はロヨラの静修の第一前備「地獄の長さ、広さ、そして深さを、想像力を働かせて見ること」に依る一方、主の愛を忘れてしまった場合でも地獄の恐怖があれば罪を犯さずに済むとする第二前備は無視する。そしてこの「信頼できない説教師」の造形はジョイスの引用の不備ではなく、恐怖によって人心を掌握しようとするカトリシズム批判のための狡知であると解釈する。ジョイスは、地獄の恐ろしさを過度に強調することを通じて、若き日の自分を苛んだ苛烈な地獄のイメージをスティーヴンの物語において乗り越えようとする。その一例が地獄の説教に登場するルシファー=サタンのセリフ「我仕えず」を大学生のスティーヴンが反復する場面にある。だが、神への反逆を「一瞬でも」意志したルシファーがまるでイカロスのように「永遠の」地獄へと堕ちたのに反して、大罪を犯したスティーヴンにいまだ地獄落ちは訪れない。スティーヴンは地獄のイメージに取りつかれ、また神父の説教を信じている。しかしその信仰は、大罪を犯せば一瞬で地獄に落ちるというのにまだ地獄に落ちてはいない自分の実存の確認に向かう。地獄を信じれば信じるほど、スティーヴンの「瞬間」的実存と地獄の「永遠」との距離は広がっていく。同時にジョイスは、スティーヴンが恐れおののく「圧倒的な密度と正確性」を備えた地獄の描写を通じて、このトラウマから距離をとり、カトリシズムとのひそかな戦いを開始する。
※キャシー・カルースのトラウマ理論、「[トラウマ的体験の]直接性・無媒介性(immediacy)は、遅延・事後性(belatedness)という形を取ることがある」の援用が本章の議論にとって不可欠だとは思われない。カルースの論の前後関係が不明なので推測でしかないが、おそらくトラウマとなるような出来事はそれが生じた瞬間には経験できない、経験しそこなった体験として主体に刻印される、ということであろう。だから真の経験は常に遅れてやってくる。この遅れゆえに、出来事について事後的に語ることはこれをしっかりと経験しなおすことに等しい。このような意味において、スティーヴンが地獄について語り、またジョイスが書くという行為は、経験しそこなった出来事の経験であるといえる。しかしながら、本章の主題はトラウマではなく、(地獄の描写がいかに苛烈で執拗でトラウマになりそうなものであろうと)カトリシズムにおける地獄の「信仰」を問うところにある。信仰がトラウマ的出来事によって強化される側面もあるのかもしれないが、トラウマ理論を援用するのであれば信仰との関係を論点とすべきであるように思う。次に、神父が「信頼できない説教師」であることの意義が不明な点。ジョイスが神父に聖書からの引用を敢えて間違えさせている、という説を小林はとっているが、では敢えて間違えさせることにどのような効果が見込めるのか。神父としての正統性の毀損に言及する箇所はあるが、これでは弱いだろう。この失策が地獄の恐怖を最大化するための狡知として読めるのであれば、論は強くなる。また地獄の恐怖に先立つ神への愛を説いたロヨラの第二前備の欠落を指摘する箇所も物足りない。『ユリシーズ』における教会への愛憎の議論とつなげるよりも、この第二前備に神父が言及しない点をもっとはっきり問うべきではないか。そうであればこそ、信仰がもっぱらネガティヴな地獄への恐怖から語られ、積極的な神への愛が埒外に置かれていることの意義を問うことになる。神父が語らないことについて論じれば、スティーヴンが信じ込まされたものの偏りが鮮明になるだろう。
第五章 「盲者の視覚――『若き日の芸術家の肖像』における語りと視覚」(横内一雄)は画布に向かうときはモデルに目が届かず、モデルを見るときは手元を見ることができない画家の視覚を論じたデリダ『盲者の記憶』を補助線に、視覚・盲目・まなざしについて論じる。
ほぼ全編を通じて眼鏡をなくした状態に置かれているスティーヴンだが、実際には見えないはずのものをちゃんと見ている。横内の仮説は、スティーヴンの視覚以外の知覚や記憶、ないしは語り手やジョイスの知識が補っている、というものだ。このように『肖像』には「現実には見えないものを書くことを宿命づけられている」「盲者の視覚」というテーマがある。スティーヴンは他人の目を覗き、視力を失っている眼球にも視線を幻視する。さらには、眼球の存在しないところにも他者の視線を感じる。よく見えないがゆえに多分に自意識過剰に陥り、視線恐怖をきたすスティーヴンの視覚に注目するなら、一見微視的でリアリスティックに見える少女の描写の信頼性も揺らぐことになる。それはモデルを転写するがごとき微視的な描写なのではなく、モデルなきリアルな幻視である。リアリズムを超克しようとする芸術家=盲者の視覚=死角とでも言おうか。
※eyesとgazingとを分け、前者を身体的な目、後者を視線として横内は論じている。だがeyesは眼球であると同時に、視線やまなざしとしても使われる。したがって、eyes/gazingという分類をテクストのなかで行うことは端的に不可能である。読み手は、eyesに物質的な目の存在と視線の作用の両方を認める必要があるだろう。現実の光景と幻視はわけることができない。このほうがジョイスの目論見に近いようにわたしには思われる。
第六章 「アクィナス美学論の〈応用〉に見る神学モダニスト的転回」(金井嘉彦)は、スティーヴンが奉じるアクィナスの美学の前景化、それからこれと不即不離の関係にあるドイツ観念論の後景化に、カトリックにおける神学モダニスト論争の影を認める。
「応用アクィナス学」と呼ばれるスティーヴンの美学論の研究動向は、これまでのところ典拠探しが中心だった。この「応用アクィナス美学論」にはドイツ観念論の影響が見られるものの、物語のなかではドイツ観念論の話題になるとなぜかスティーヴンは口を閉ざす。金井が注目するのは神学者アクィナスの側面である。当時カトリック教会を近代化しようとする神学モダニズムの流れがあり、カトリック教会主流のスコラ学はこの封じ込めに躍起になっていた。アクィナスはこのような文脈においてカトリックの正統的な哲学者としての地位を享受していた。神学から遊離したドイツ観念論は、カトリックの敵だった。ドイツ観念論に対する沈黙は、カトリック教徒の正統的なふるまいであったことがわかる。しかし金井は、どのような美学思想を内に秘めていようともアクィナスの名さえそこに冠しておけば安全である、というスティーヴンの二枚舌をここに読む。神学とスコラ学の融合を図った中世のアクィナス像がカトリックの改革を図る神学モダニストにとって枢軸となっていた点を確認するにおよび、スティーヴンの応用アクィナス学は「キリスト教を時代に適合させるモダニスト的な応用力」という含意をも帯びる。かくて金井は、従来アクィナスを応用する程度にしか考えられてこなかったこの美学論を、中世の改革者アクィナスに仮託された教会/モダンの対立と神学/美学の離断を解決する戦略的な弁法として解釈する。
※アクィナスを異端思想の隠れ蓑とすると同時に中世のモダニストとして奉じる、という二重の戦略を、スティーヴンの美学に読む試み、特にそれを神学との関係において達成している点はおもしろい。しかし、神学とスコラ学を融合させた改革のイコンとしてのアクィナスの議論に関しては、紙幅の問題もあるだろうが、かなりの程度、テクスト外の情報に負った解釈となっている。特に12世紀ルネッサンス以後の時代に東から大量の写本とともに流入してきたアリストテレス主義がスコラ学の核だった、という点は考慮する必要があるだろう。それまで後進地域だった西ヨーロッパは、アリストテレスとともに一気に知の水準を上げる。「スティーヴンはアリストテレスとアクィナスの名を挙げるのであるが」(151)に続く論述では、アクィナスとともにアリストテレスの名が言及されている点は無視されている。中世において教会の教えに背く思想を多々含んでいたアリストテレスへの言及は、「中世のモダニスト」アクィナスの革新性を仄めかしているのではないか。
第七章 「ヴィラネル再考――ジョイスとイェイツの間テキスト性について」(道木一弘)は、スティーヴン作のヴィラネルとイェイツの詩との間テクスト性に注目、「倦怠」と「彷徨」というテーマが『肖像』のプロッティングにも反映されているとする。作中に登場するシェリー「月に寄せる」における倦怠と彷徨のテーマを補助線として、イェイツ「彷徨えるアンガスの詩」(+「薔薇の世界」)を『スティーヴン・ヒアロー』と並ぶ『肖像』の「原テクスト」として読む。
ジョイスとイェイツの微妙な影響関係については、さまざまな論者が指摘しているようなので、「彷徨えるアンガスの詩」がスティーヴンのヴィラネルの着想源のひとつだったとしても不思議はないのかもしれない。しかし、それが『肖像』の「原テクスト」のひとつというところまで飛躍すると、さすがに無理があると思われる。「間テクスト性」が事実上の「相同性」や「平行関係」であることは論文中の記述からもうかがえる。一般的に「間テクスト性」は、テクスト間の関係性そのものを見定めるというよりは、先行する作家から後続の作家へという、点から点への影響、特に両者の類似性を記述するために使われることが多い。道木の「原テクスト」という祖型探しを目論む用語にこのアプローチの限界は如実に表れている。このアプローチをとる限り、「原テクスト」の発見とその証明に終始することになる。「間テクスト性」という用語は、原テクストと『肖像』が似ているという前提のもとに使われており、両者の関係性はあらかじめ「相同性」に限定されてしまっている。さまざまな関係性の吟味に向かわず近似性だけを素朴に前提して記述する傾向は、「間テクスト性」を標榜するすべての研究に言えることであろう。この議論から排除されている異物を精査することが相同性を越える関係を見定めるために必要な作業なのではないだろうか。テクスト間の関係性の吟味にあたって、作家間の影響関係の含意を伴う「間テクスト性」という概念は今でも有効だろうか。またわたしとしては、相同性を追求するのであれば、イェイツにこだわる必要はないと思う。「倦怠」と「彷徨」は、ロマン派からデカダンに至るまで広範に見られる近代化の時代の気分を特徴づける要素だと思うし、テクスト間の近さにこだわるならば、そのような広いコンテクストへの応答として『肖像』をとらえたほうが実り豊かであるように、わたしには思われる。
第八章 「象徴の狡知――『若き日の芸術家の肖像』あるいはジョイス版「実践理性批判」(中山 徹)は、外的な要因による決定を受ける感性的経験と「純粋な超越論的理念」(カント)との差異、また宗教的道徳律に従う主体とこれに依拠せず前提なき自由を希求する主体のありかたについて論じる。
カントの崇高論とジェイムソンのモダニズム論を補助線としつつ見ていくと、神の与える責め苦の永遠、つまりは限りない超自我と、経験できない自由の理念というふたつの崇高性があり、後者に芸術家の使命が重なる。この自由の理念の実現にあたり芸術家の手段となるのが、想像できること(「飛翔」)と実現できないもの(「自由」)のあいだに反省の形式のアナロジーを成立させこれを表象する象徴化行為である。スティーヴンの美学論を検討すると、「光輝」という象徴によって超感性的な「神意」を発見したり、芸術作品を通じて「創造神」を喚起したりする、超感性的なものの象徴化が見られる。このようにしてかつて超自我の位置を占めスティーヴンを苛んでいた神は、芸術家という主体の自由の象徴と化すように見える(はっきりと論じられていないがおそらくそういうことだろう)。しかし芸術家に自由の可能性をもたらす象徴は、理性理念という想像を絶するものを対象とする限り、象徴化の挫折を表象する象徴でしかない(神をめぐるさまざまな芸術作品を思い浮かべても神を定義し、これが神だと断定するに足る証拠をもつものはない)。だが、(神のように蝕知できないものではなく)経験できるものや安易なイメージに逃避することなく、自由という五感では捉えることはできないしこれだと認識することもできない理念を象徴化しそこなうことによって、自由の超感性的な性質を否定的なかたちで(自由の理念は現実をいつも凌駕するというかたちで)実演することになる(だから象徴化し続ける価値がある)。中山は、『肖像』における象徴化のスタイルをジェイムソンのモダニズム論に差し戻す。ジェイムソンはモダニズムの形式を、帝国という空間的全体性を志向する帝国モダニズムとそのような志向を欠いた植民地モダニズムとして整理している。ジョイスは後者に妥当する。しかし中山は『肖像』に全体性の志向がないわけではないと考える(どのような全体性かについては論じられていない)。理性はどこまでも広がる全体性を志向する。帝国モダニズムが「理性の認識的要求」(理論理性の表現)にかかわるのであれば、ジョイスは「理性の実践的要求」(実践理性の表現)にかかわる。このようにして、モダニズム文学全体のなかに、『肖像』を位置づけて論は閉じる。
※道徳律の問題を崇高から説き起こすところでまず躓く。小林が論じているように『肖像』の地獄が超自我=悪い良心の問題系に掉さしていることは確かだと思うが、終わりなき責め苦を神の無限性と結びつけ、これを美的判断の水準で論じるところにいろいろと混乱があるように思う。カントの道徳律というよりは、神の御業を永遠の地獄の責め苦としてスティーヴンに与える、言い換えればスティーヴンに超自我を植えつけ他律的な主体とするカトリックの道徳を問題とすべきだろう。この決定論から逃れ、神的次元を自らに由って表現するのが芸術家による「象徴の狡知」となるはずだ。乱暴に一般化すると、プロテスタントは神とは根本的に異なる、人間の自然との決定論的関係を考察する(このなかでロマン派は人間の自由の問題を自然との有機体論的総合によって解決しようとする)。カントの援用にわたしが居心地の悪さを感じるのは『肖像』がカトリックに深く根差したテクストであるからなのだろうか。本書を読む限り、カトリックは依然として神学的な決定論に縛られていたようだけども、神学モダニストを論じる金井の章が明らかにしているように、この時代にはそれも揺らいでいた。中山の論を借りるなら、カトリックの道徳律から離脱する(相対的に自由になる)には、いきなり無神論的な境地に達するのではなく、神を個人的な芸術において象徴化するというプロセスが必要だったのではないか。ジョイスの象徴化の議論をみていると、常にすでに人間を内側から決定してくる道徳律から、前提なく熟慮の上決断する(事後的にその成否が問われる)実践倫理への移行があるように感じる。次に道徳律の問題とジェイムソンに依拠したモダニズムの政治的問題がうまくつながっていない。おそらくは終盤を読む限り、象徴をめぐる美学イデオロギー(あるいはパラ・サブライム)の問題を扱う方向なのだと思う。そうするとそもそも道徳律の問題を論じる必要はあったのだろうか、と考えてしまう(イメージその他の経験についてまず論じたうえで、崇高と象徴化の議論に移ればよかったのではないか)。論証の手続きにも強引さが目立つ。とりわけジョナサン・カラーを引っ張ってきて、一般的に頓呼法は抒情詩的な文彩とされるとし、これをテクストの一部分の、それも抒情詩という形式をとらない箇所の解釈に援用するのは難しい。結論ありきの印象が強い。とりわけ先行研究が無視されている点に論の達成度の不明瞭さと不親切を感じる。しかしながら、「飛翔」と「墜落」の同居を自由という理念の実現不可能性の象徴(芸術が挫折を運命づけられていることの象徴)と位置づけ、これを『肖像』のポテンシャル、モダニズムのポテンシャルとして剔抉しようとする野心的論文なのは間違いない。
第九章 「スティーヴンでは書けたはずがなかろう――ヒュー・ケナー『肖像』論における作者ジョイスとスティーヴンの関係性」(下楠昌哉)はジョイス学者のなかではもっとも一般認知度の高い『機械という名の詩神』の著者ヒュー・ケナーの『肖像』論二篇をおさらいする。
まず「『肖像』・イン・パースペクティヴ」(1948)は、『肖像』と『ユリシーズ』、『フィネガンズ・ウェイク』の連続性を論じ、『肖像』を自伝的な作品と断定はしないところが画期的だった。「スティーヴン・デダラスとかいう輩が『肖像』や『ユリシーズ』を書いたと仮定するのは、しつこく繰り返されている誤謬である」という文言はとりわけ論争の的となった。しかしケナーによれば、スティーヴンとジョイスとを同一人物であるという説の否定こそが論文執筆の動機であった。「ジョイスの『肖像』――ある再考」(1965)でよく言及されるのは、複数の視点から同一の対象を捉えるキュビスムの作品として『肖像』を評価した点だった。しかし下楠は、そのような趨勢に隠れた、前作で明確に論じきれなかったジョイスとスティーヴンの関係についてケナーが再考している点に注目する。ケナーはワイルドとジョイス、ワイルドとスティーヴンの類似性について論じているため、またしても両者の差異は埋没してしまうかに見える。だがアリストテレスの「可能態」に恃んで、『ダブリナーズ』の登場人物は実際に実現しなかったがありえたかもしれない悲惨な状況に陥ったジョイスその人である、というアクロバットな論を展開するケナーは、スティーヴンをジョイスがそうなってしまう可能性もあった、うだつのあがらない芸術家として論じる。ケナー本来の企図に鑑みると、スティーヴンがジョイスの「可能態」であるとする論は、両者の決定的な差異というよりは近さを匂わせる結果となっている。しかしここに下楠は、予断なく作者と登場人物の関係性を見定めようとするケナーの真摯な態度をみる。
※正直なところ、ヒュー・ケナーの論がジョイス学者によって今日まで読み継がれている理由はよくわからなかった。ケナーの論に、ジョイス批評を賦活するだけのポテンシャルがまだあるのか、門外漢にはよくわからない。スティーヴンがジョイスの「可能態」であるというのであれば、ジョイスもまたスティーヴンの「可能態」である、という裏返した読みも可能なのかもしれない。それはともかく、作品はジョイスによって完璧に統御されており、読者はジョイスの掌の中で踊るほかなく、残された手立てはいかに踊るかの一点のみ、という前提をジョイス学者はなかなか崩さないように見える。その前提を維持するために、スティーヴンは(ジョイスに比べて)不完全な芸術家として論じられる傾向にあるのではないか。中山の論を借りれば、ジョイス学者にとっての全体性への志向とは、作品ではなく、芸術家ジョイスという宇宙を象徴化しようとする欲望であり、各論はその挫折、しかし勇気ある挫折なのかもしれない。ケナーもまたそのひとりなのだろう。しかしジョイスという芸術家は「創造神のように」完全であるという前提は正しいのだろうか。中山の論のポテンシャルを汲めば、ジョイスもまたスティーヴンと同じように挫折した芸術家である(美的完成の頓挫を実践する)がゆえに、美と政治の問題を取り扱うにふさわしい作家なのではないだろうか。
第十章 「スティーヴンと「蝙蝠の国」――『若き日の芸術家の肖像』における「アイルランド性」(田村 章)は、芸術家スティーヴンがその影のごとく揺曳する政治性と歴史性に焦点を当てる。
イングランド寄り/独立派ナショナリストカトリックプロテスタント、イギリス式学校教育/アイルランド文芸復興運動、土着民族/侵入者といったアイルランドの異種混淆性が列挙され、これを背景としたスティーヴンの自己形成/反動形成が論じられる。トマス・ムアやジョン・ヘンリー・ニューマンという純粋というにはほど遠いアイルランド作家のように、スティーヴンも引き裂かれた存在であり続ける。「妊婦」でありながら「娼婦」でもある女として表象されるアイルランドに生きるスティーヴンは、さまざまな境界性の象徴たる「蝙蝠のような魂」を、芸術創造の過程において言語の迷宮に閉じこめる。田村は、「アイルランド性」を過去へのノスタルジアではなく、清濁併せ呑む活力と一筋縄ではいかぬ矛盾として捉える。
 ※やや大雑把な論述ではあるが、新歴史主義的な同時代性に拘泥することなく、歴史小説、あるいは歴史叙述の問題を幅広く展開している。12世紀から20世紀初頭に至るまでのアイルランドを取り巻く宗教的・政治的混淆性をスティーヴン個人のモデルなき自己成型として考察する。「蝙蝠のような魂」という濫喩(?)は、中山のいう「象徴の狡知」とどう関係するのか。田中のいう「上昇と下降の波動パターン」や南谷が論じる「流動性」と「往復性」の意匠は、この時間性や歴史性とどう交わるのか。また道木の「間テクスト性」は、このような巨大な時間と歴史の堆積に恃めばよいのではないか。点と点を結ぶ間テクスト性ではなく、面と面が接する文化・歴史・宗教の地層に埋めこまれたテクストのポテンシャルを問うべきではないか。
 巻末には21のコラムが付されている。『肖像』をめぐるさまざまな言説の厚みを体感できる。このような批評的前提を広く共有しようという姿勢は、放っておくとマニアックに淫する危険性の高い作家研究の蹉跌を回避する安全弁となるだろう。英文学という学問体系の中でも特殊性の高い、アイルランドをめぐるトピックは必読だと思われる。一点、苦言を差し挟むなら「19 『肖像』と映画」の項目は、映画を原作に対する忠実性から論じるという文学研究者が犯しがちな錯誤に満ちている。「『肖像』の心象を現実描写に混ぜる描き方やこの作品が多用する隠喩は映画には簡単に移せない」というが、そもそも小説言語と映画が駆使する表現技法は全く異なる。メディアの違いは前提としなければならない。音と映像、カメラの視点、編集など、さまざまな映画的技法、あるいは映画の修辞法は、端的に原作の言語や物語に対する忠実さには還元できない(小説における映画的技法の応用に関しても所詮は比喩的な水準にとどまる。根本的に小説は映画ではない)。この辺は、アダプテーション理論や上演理論が洗練されるにつれすでに克服済みの問題なのだが、これを共有しないまま映画をまるで文学であるかのように語り、前者を劣化版文学のように語る文学研究者はまだ数多い(シェイクスピアの台本は上演より優れているだろうか)。このような忠実性を前提とした議論は、文学の他のメディア作品に対する優越性を素朴に前提することになる。このメディアミックスの時代に文学と映画の関係を語る意義は、技法の制約のためうまく表現できていないテーマや埋没しているポテンシャルが、文学とは異なるメディアに撒種され別様に表現される余地を認める場合にのみ存在しうる。文学について語る言語は、文学言語の限界を意識することによって豊穣になるだろう。

※上の段落に関し、南谷奉良さんから批判を頂戴した。適切な批判だと考える。
第一に、「19 『肖像』と映画」の項目の執筆者である金井が、論点を4つ挙げてからそのうちのひとつである忠実性について論じている、という経緯をわたしが無視している、という批判。4つの論点は以下の通り。
1.『肖像』執筆当時の映画
2.『肖像』における映画的側面
3.映画版の『肖像』に対する忠実性
4.原作を抜きにした映画版の評価
上述の通り、金井は3.の忠実性に関する議論にフォーカスしているが、金井が3.以外の論点を視野に収めず忠実性だけに拘泥しているわけではない。金井の解説を「ナイーヴな」文学至上主義的言説へと歪曲している可能性は否定できない。
第二に、「素朴に前提する」というワーディングについて。「素朴に」という言葉は、批判対象に対する書評子の優越性を強く前提してしまうゆえに、論証と説得の言語としては不適切ではないのか、という批判である。このような論じ方をすると、批判の妥当性を問う過程よりも、結論の無謬さが前面に出ることになる。つまりは、侃々諤々の議論ではなく、すでに判決の下った主文という色彩が濃くなる。書評子が裁判官の椅子に座ってはならない。批判を展開するのであれば、検察側、あるいは弁護側に立ったまま説得的な論証を続けるべきであろう。感情的に判決を下してしまったのは間違いない。わたしの過失である。
わたしの批判の意図を述べておく。まず一点目に関して応答しておくと、わたしの批判の論点は、映画に対する文学の優越を前提し、両者の関係を「忠実性」に限定して論じることに学術的意義はない、ということに尽きる。わたしが気になるのは、金井が3.にフォーカスしているだけではなく、原作と映画版の関係を「忠実性」のみに局限している点である。「4.原作を抜きにした映画版の評価」でも、原作は無視して映画だけを評価するわけなので、両者の関係はかっこに入れられたままになっている。「原作を知っているジョイス研究者としては、原作との比較抜きに映画だけを純粋に評価することは難しい」(290)として3.の忠実性の解説に移ることからも、(文学一般と映画一般の関係についてはわからないが)少なくとも『肖像』に関しては、原作のほうが映画版より優位にあるという前提のもとに議論をしている、と判断せざるをえない。文学の原作と映画に忠実性以外の関係はありえないのか、忠実性に文学の未来はない、という批判を重ねておく。ただ、以上の4つの論点を精査することなく批判を展開したのは、わたしが犯した過失であることに間違いない。フェアではなかった。
二点目の批判における、「素朴に」という言葉遣いは、少なくない文学研究者が依然堅持しているロマンティックな作家主義・文学至上主義を指弾する意図があった。しかしこれは上述したように、批判的な論証を遂行する上でふさわしい選択ではないように思う。「映画に対する文学の優越を前提し、両者の関係を「忠実性」に限定して論じることに学術的意義はない」というわたしの認識について細やかに論じる必要性があったと痛感している。拙速であった。なお「素朴に」は道木の論に対する批判においても使用している。「素朴に」という言葉遣いには、(論者に対してではなく)間テクスト性や忠実性という「乱暴な」概念、論文を書く上で使っておけば安全だとみなされているものの有効性が認められない権威的な道具に対するわたしの嫌悪感が短絡的なかたちで出ている。憚られるようだが、文学研究者はこれをもって奇貨としてほしい。 

同様に、今後もジョイス研究をpublicationするのであれば、ジョイスの作家としての限界を指摘し、ここにジョイスの他者が容喙する余地をつくる批評が求められるのではないか、とわたしは考える。ジョイスで充足しないこと。これは文学研究全体にも言える。文学で充足しないこと。文学は不完全な形式である。不完全であるからこそ文学は、他のメディアや人文諸学、果ては市井へと開かれる。