「味の向こう側」(麒麟)ならぬ、人種の向こう側

 なんだかいつのまにやらライブドア関連の銘柄続落、そしてIT関連も暴落、という事態に発展した「ライブドア・ショック」だけど、株買ってた人はショックどころじゃないだろうね。上場廃止は規定路線。株価の変動だけが剰余価値を生む原動力だった会社は、株が流通しなくなったら終わりでしょう。ホリエモンの今年の月収2000万らしいけど(年頭のテレビ取材より)、もう無理か。筆頭株主ホリエモンだけど、株券が紙くず同然になっちゃったら資産でもなんでもないし。けど識者によれば、立件は結構大変らしい。なんせ日本では前例がない「事件」だから。ま、数多くの前例を作って、既成概念を壊してきたホリエモンだから、ここでも自ら「前例」になるのでしょう。しかし、「罪」の部分がでかくとも、「功」の部分(護送船団方式の球界に風穴を開けた、など)は評価してやらないと。すでに「過去の人」みたいだ。つーか、吉川ひなのってやっぱりオカシイというか、運がないというか、このB級さはかなり凄い。IZAMって何してるのかしら?
 今日やってた「アンビリーバボー」(リンクあり。バックナンバーの「奇跡を生んだ授業」)。アメリカの大学生が死刑囚の冤罪を証明する、という内容。フィールドワークどころか刑事並に動き回って捜査する学生とそれがきっかけで次々と解明される謎。そして真犯人の自供まで引き出し、服役囚は無事に解放される。その後、イリノイ州知事の調査で新たに三人の死刑囚の冤罪が判明。これ以上いるかもしれないので、全死刑囚を減刑することを発表、みたいな流れ。さすが感動大安売りの「アンビリーバボー」。待て待て。冤罪を証明することよりも、なんでそもそも学生たちが解決できるような簡単な事案で間違った殺人犯が生まれるのか、よく考えよう。黒人だったからではないのか?(番組中は犯罪が多すぎてということになっている。確かにそれも一因だろうが)。今は少しはましに(より潜在するの意)なってきているだろうが、1982年だったら、今より一層人種的な差別はきつかった。言論の世界ではもちろんバリアフリーは進んでいたし、黒人の知識人が疎まれるというより逆に歓迎されていたぐらい。でも言論界での待遇が変わることは現実の生活の改善を保証しない。状況が変わったのは一部の特権階級だけで、その他の人々の生活はほとんど改善されていない。公民権運動以後、黒人と白人の所得格差は逆に拡大している。そして黒人間の所得格差も広がった。成功した黒人は「アメリカン・ドリーム」の具現者としてもてはやされる。そうした成功者は結局のところアメリカ国家の大きな物語の中に回収され、ほとんど他の大多数の「持たざる黒人」の地位を向上することはない。こうして「持たざる黒人」は(ブルデュー的な意味において)再生産されていく。
 往々にして、弁護士を雇う金など期待できない「持たざる」黒人は、経済的にだけではなく、法的にも弱い存在になる。確かに犯罪の件数は多かったのかもしれないが、富裕層の白人ならばどうなっていたことか。黒人の事件というとO・J・シンプソン事件などのセレブな人の事件ばかりが注目されるけど、本当の意味で「黒人の事件」なのはこういう「事件」にもしてもらえないほどありふれた事件なのでは。黒人というだけで不当に罪を捏造され、そして無実を証明するに足る原資を持たないがゆえにそのまま冤罪を原罪のごとく背負う。人種と階級が相互に作用するアメリカで、現在の黒人は生きていかなければならない。
 そしてもう一つ。真犯人も黒人だった点。それはまあいいのだが、あの悪魔みたいな描き方はどうか(笑い声も「ヘッヘッヘッ」みたいな)。あの黒人達は、常に紙一重のところにいる。生きるのに必死なのだ。もちろん殺人を擁護するわけではないが、無実の者に対して肩入れするあまり、真犯人を悪魔に仕立てあげるのはどうか。しょうがないか、「アンビリーバボー」だし。
 もっとも、無罪を勝ち取った黒人も完全に「シロ」かどうかは疑わしいようだ(リンクあり)。しかもこの人、この冤罪とその他の嫌疑を公民権法にかけて、この件を「人種問題」にした模様。結果はわからないけど、「アンビリーバボー」の最後あたりを見る限り「シロ」にしたんじゃなかろうか。Anthony Porterは社会的にも金銭的にも成功者になった(多分)。彼を貶めたのは「人種問題」だったのかもしれないが、彼を成功者にしたのもまた「人種問題」だったのかもしれない(多分)。「人種」ってあるときは黒人にとって武器になる(「人種差別だ」というとたいていの者はだまる)けど、そのせいで疎外もされる。結局、PC(政治的に公正な)とは違う次元で「人種」が見れるか、というのがこの問題の解決へと通じている(と信じている)。だから、人種問題によって受けた不利益を補償してもらうようなやり方を私は支持しない。それは、「金やるから黙ってくれよ」という悪代官的発想に通じている。そうすると結局、「人種問題」は個の生活条件向上のレベルに限定されてしまう。「人種問題」という言葉は確かにお金が取れる。けど、皮肉なことにその言葉は「人種問題」を解決しない。「人種問題」を持ち出すと、悪いのは白人で被害者は黒人という即興ステージが作られ、事実関係や善後策はそっちのけで、いかに補償額を低く抑えるかが焦点になってしまう。PC的な発想の「人種問題」を私が全く無視するのは、それが「人種問題」にとって重要な部分を隠す、あるいは殺してしまうからだ。Porterのケースは、まさに典型的な「人種問題」だろう。*1 
 もっともこれも「人種問題」全体を俯瞰したときに通用する理屈の一つであって、Porter個人の人生とは関係がないといえば関係がない。別にPorterは悪くない。同様の事例は、数え切れないほどあるだろうし。ただ、黒人が「被差別者としての黒人」になるのは「人種の再生産様式」の中なのだから、Porterのケースが何も解決していないのは明らかだ(悪いのは白人、かわいそうなのは黒人と言い続けるだけでは意味がない)。
 で、どうするの?と聞かれても困る。今のところ書くしかないでしょ(書いてもほとんど人の目には触れないのだけど。それがジレンマ)。ペンが剣より弱い世の中になってしまったのかもしれないけど、少なくとも「棍棒」よりは強いことを祈って。未だによく見るけど、白人は悪で黒人は善みたいなものは批評とは言わない。その向こう側を見なければ。「人種問題」は「白人問題」である、みたいなことがよく言われるけど、それは違う。黒人の知識人の中には「人種問題」を餌に生きていると思われる人もいる。人種問題を解決しようとするのではなく、できるだけ引き伸ばしてそれでいいんじゃん、みたいな人が(とにかく白人をたたけばいい)。それこそ「人種問題」だと私は思う。人種間を越境する視点から人種は見なくちゃだめ、というのがまず大事。そして、人種内部の差異をよく考える。すぐに黒人全体を "we" だの "they" だので括る傾向があるけど、それは「人種問題」を再生産してしまう。個と全体、あるいは小規模の集団と全体の関係を見定めなければ。そして最も重要なのが、「人種」という言葉そのもの。私は「民族」とか他の言葉で代用するご都合主義には反対。「人種問題」は「人種」という言葉が持つ言語の構造を意識しないと語れないからだ。ただし、「人種」という言葉の使用は非対称な「人種関係」を突き崩すために使うべきであって、意識的であれ無意識であれそれを維持するために用いるべきではないと思う。記憶があやふやで申し訳ないが、年始にNHKで連続してやっていた「ブロードウェイ100年」の中で、ある歴史家が黒人の音楽の状況に関連して "reflecting race relations"(だったと思う)と発言した直後、"complicated" とか "entangled" とかをつけて音楽と人種との間の関係がよりフレキシブルであることを強調しながら説明し直していた。専門家であっても、人種関係を所与のものとして、本質的なものとして、あらゆるものに対する最終審級として認識してしまう危険がある。人種という言葉、そしてそれに付随するあらゆる人種関係は常にすでに存在する。けれども、それは変える事ができない全ての災厄の「起源」ではない(もしそうなら、「人種」について語ることはPorterのように補償的な意味合いしかもたない)。人種は可変的なもので、ダイナミックなものだ。少なくともそう信じることで初めて「人種」について語る意味は生まれる。人種という言葉を使わなければならない。ただし、これまでと異なる(比喩的な意味での)文法構造の中に置きながら。言語は関係のシステムだから、人種という言葉が使われる文脈が変われば、人種問題も違った景色に見えるかもしれない。極めて限定的な希望的観測に過ぎないけど、それでもやることに意味はある、と思う。自戒と希望を込めて。
 勝手気ままな放談、申し訳ない。そして長いくせに内容薄くて、申し訳ない。ただ、ちょっと思ったことを「ぐだぐだ」書いているだけなので。

*1:補償の問題は本当はもっと複雑なので、ちょっとこの切り方は乱暴かも。