二日目。9時15分ごろ無理やり起きて、9時半ごろ無理やり出発。なんとかかんとかたどり着くも、ほとんど脳死状態。一人目の発表の途中にシンポ会場に入る。
「南の周縁(シマ)から問う "アメリカ"」。どうやらプログラムどおりの進行ではないようで、斉藤修三→喜納育江→菅啓次郎という順番の模様。と、今福龍太はどこだ、と探すも壇上には見当たらず。ふと、最前列に麦藁帽子を被った人物が。どういう展開なのか全く分からないまま、とりあえず聞くことに。
斉藤修三「アメリカスの詩学:チカーノ・ラティーノが響かせるヴァナキュラーな周縁(シマ)言葉」。ほとんど終わり間際だったので、拝聴できず。ただ、SpanishとEnglishとが融合して、新たな言語空間を生み出していく、というような発表だったのではないか、と想像する。
喜納育江「架け橋としての言語:チカーナ文学におけるLa Malincheの表象」。コルテスの通訳であり愛人であったLa Malincheは、女性=受動性というステレオタイプを当てはめられ性的に搾取される存在として表象される一方で、征服者と通じアステカ文明を崩壊に導いた裏切り者としても表象された。征服者/被征服者の双方から否定的に表象されたLa Malincheであるが、それらの否定的な表象に通底しているのは男性中心主義的な発想である。チカーナ作家たちは、La Malincheを転覆可能性を秘めた存在として積極的に表象しようとしている。その手がかりとなるのが、La Malincheが翻訳/通訳者であったという点である。monolingualな男性中心主義に対して、チカーナ作家のLa Malinche表象は、その多言語的な可能性を前景化する。そうしたLa Malincheの表象可能性は、アメリカとメキシコとの国境地帯と言語的な境界を同時に越境・侵犯するチカーナ作家の現代的な対抗政治に接続されていく、という刺激的な発表。ただ、男性中心主義やアメリカ中心主義といった用語が頻出していたように、やや二項対立的な図式が強力すぎるきらいが。翻訳者は確かに征服者よりも言語的に優位な存在であるわけだから、抵抗の拠点は言語的優位性なのだろうが、まずもって翻訳者は征服者に雇われるているわけで、両者の主従関係を忘れてはならないように思う。主従関係があるからこそ、言語の優位性を発揮できるわけで。もっとも、チカーナ作家がそのように描いているのであれば、仕方がないが、チカーナに対する批判的な視点があったほうが面白いと、不案内ながらも思った。
菅啓次郎。レジュメなしでノートパソコンを前に朗々と語る。沖縄、カレン・テイ・ヤマシタ、そしてもう一人ぐらい話題に上ったような気がするが思い出せず。人のアイデンティティを指し示すのに、国籍では不可能で、言語や様々な文化的背景等が複雑に錯綜している、という話。James Cliffordが論じていた旅するハワイミュージシャンの話なんかを思い出す。それにしても、ヤマシタの Tropic of Orange はなんとも破天荒な小説っぽい。機会があったら読んでみたい。このプレゼン、実に詩的な感じで、内容云々よりも雰囲気を体験するような感じだった。芸風がやっぱり一味違います。
休憩を挟み、今福龍太。一時間ぐらい、あるいはもっとしゃべったか。ほとんど講演状態。レジュメ、というより引用を集めた紙が一枚。「アシアトのところを谷折りにしてください」なんて随分遊びごころ満載な感じ。メキシコ系アメリカ人研究者(と呼んでいいのかどうか)Americo Paredesが日本滞在中に書いた一篇の詩 "Esquinita de mi pueblo" (1950) を手掛かりに、英語とスペイン語との間、あるいは土地と土地との間で揺れる「旅する文化」についてのお話。以下、メモを取らずに聞いていたので間違っていたらごめんなさい。今福自身、このParedesに教えを請うべくテキサス大学にいた経験があるようで、そのParedesが今福となぜ他の学生とは異なる交感を結んだのか、という今福の記憶が取っ掛かり。実はParedesは戦後間もない時期に記者として日本に滞在していた経験があった。Paredesは、日本についての記事をアメリカとメキシコにそれぞれ異なる言語で送っていた。Paredesにとって、日本はメキシコ系アメリカ人という自分の位置を定位させると同時にその場でそれ自体を揺動させるトポスであった。メキシコ系アメリカ人というParedesの立場を今福は件の詩の中に見出す。と同時に、それはParedesにとって特別な意味を持つ日本という記号を今福が彼の前で再演した過去を問い直す契機とも(多分)なる。件の詩に刻印されている "red" という単語は一義的には信号の「赤」以上の意味を持ち得ないようにも思えるが、今福は他のメキシコ系詩人の詩との間に経路を引くことで、"red" の多層性を浮かび上がらせる。共産主義の赤、スペイン語で "net" を指し示すred、そして色そのものとしての赤。Paredesの立場は詩の内外で反復され、少しづつ逸れていく。そして、今福はその共振をもたらす触媒としてこの場にいるのだろう。
今福が近年継続的に取り組んでいる「論理的整合性では到達できない極みを詩的言語によって炙りだす試み」を本ではなく、実演として見た気がした。分析ではなく、パフォーマンスという批評の形態。菅にも同じ匂いを感じたが、やはり本だけではなく、フィールドワークの中で経験として積み重ねられてきた澱のような言葉は、英文学者には真似できない重みがある。そして、批評の対象だけではなく、彼ら自身もまた英語とスペイン語(ポルトガル語もだろうけど)を学ぶ中で、他者と出会う中で、日本人であることを反復しながら、逸れていく存在なのだろう。今福が「見た目」もますますメキシコ人に近づいているように感じるのは、決して私だけではないはずだ。もっとも私はこういう批評の可能性を認めつつも、やはり論理的整合性の世界から離れられないわけだけども。けれども、というかだからこそ今福のようなスタイルが魅力的に映るのだろう。ミーハー気分で見に来た甲斐があった。
近くのジャズ喫茶のような店で昼食。その後、解散。きしめん買って、ちょっと先輩とお茶。そして機上の人。やっぱり飛行機は何回乗っても怖いなー、離陸と着陸の時だけ。
帰りに街で晩飯。いい居酒屋でした。気分よく帰宅。すると留守電が。どうやら祖母が亡くなったようで。気持ちの整理は済んでいるので特に動揺はないが、うーんなんとも寂しい。またもや長距離移動の予定。
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The Borderlands of Culture: Americo Paredes And the Transnational Imaginary (New Americanists)
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Esquinita de mi pueblo(Americo Paredes)
At the corner of absolute elsewhere/ And absolute future I stood/ Waiting for a green light/ To leave the neighborhood/ But the light was red/ Forever and ever/ The light was red/ And all that tequilla/ Was going to my head./ That is the destiny of people in between/ To stand on the corner/ Waiting for the green.