権力と暴力

 静養。太刀魚刺とゴーヤの炒め物。
 両足がパンパンに張っている。乳酸が溜まりやすい体質なのは自覚していたが、よもやこれほどまでの状態になるとは。足首から下は特にむくみがひどく、まるで幼児のよう。ちょっぴりキュートでもある。立ち上がるときに一声かけなければならないのは、なんとも情けない話。
 K−1。大会自体はつまらなかった。が、武蔵は大丈夫だろうか。ちゃんと一対残っていればよいのだが。
 
 

権力と暴力 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

権力と暴力 (シリーズ・アメリカ研究の越境)

 シリーズ本。アメリカニズムに内在する暴力と権力という負の側面を多様な視点から検討する論集。
 第6章「移民国家アメリカの『国民』管理の技法と『生―権力』」は、フーコーに依拠しながら、国家が発動する上からの権力に視点を限定して、センサス、優生学、移民管理といった人種主義に根を張る白人性強化の論理を、主として世紀転換期以降の時代に注目して跡付ける。「生―権力」の問題範囲をコンパクトにまとめている。
 第10章「『自由の帝国』に『女』は住めない」は、暴力的であるとみなされ、現に武装さえ厭わないアメリカのフェミニズムを、内部からアメリカ国家を解体し、トランスナショナルな脱国家的多元社会を構成していく尖兵として再評価する。男の暴力に女の暴力で立ち向かうのはまあよいとして、果たして女の暴力が別の被害者を生まないのかどうか。特にトランスナショナルな次元へとその暴力性が伝播したとき、真っ先に被害者となるのは発展途上国サバルタンであると思うのだが、どうだろう。
 第11章「暗喩としての車」は、アメリカの車に込められた「夢」が「悪夢」に繋がれていると喝破したシンシア・デッテルバークの説を極限化し、自動車が形而上的のみならず物理的・心理的に暴力性を発揮する悪夢の極北、「交通事故の表象的系譜学」を追う。音楽、映画、文学などの資料を縦横断しながら、自動車表象をmetaphysicalな表象としてだけではなく、physicalなダメージ、またはそのダメージに対する恐怖の痕跡として扱う、という視点は新しい。オースターやビーティ、カーヴァーなど現代文学において、交通暴力がその暴力性を失っているという指摘も含めて、今後のさらなる進展が期待されるテーマだと思う。