アムロナミヘイ

 最近、モバイル機器を次々と新調している嫁。彼女のラップトップは私が持っているそれの半分の重さで、彼女の電子辞書は私のそれよりもはるかに機能が充実している。特に後者にブリタニカと日本語シソーラスが入っているところが羨ましい。けれど、「ラーメン」をひいたところで「つけめん」も「イケメン」も出てこないシソーラスじゃちょっとねえ、と臍を甘噛みする。

サウス・バウンド

サウス・バウンド

 元・左翼運動家で現・アナーキストの親父を中心とした家族を12歳の息子の視点から。すったもんだの挙句、一家は南へ。そしてさらに南を目指すところで閉じる。環境保護思想だのマルキシズムだの、新旧問わず、イデオロギッシュな人たちが乱舞する。こういうテーマを扱うとつい型に嵌ってしまいそうなものだが、奥田は独特の手つきで料理している。特に親父のキャラが『おとうさんのバックドロップ』に匹敵するほど素晴らしい。
 テーマは連帯。左翼運動に幻滅して、孤立したアナーキストとして生きる親父は、連帯を拒否する。物語の流れ自体も、外から見えると一枚岩に見える虚構の連帯・共同性が次から次に突き崩されていく過程とほぼ一致する。けれども、連帯や共同性を全否定しているわけではない。外から見ると一見ばらばらだけど、外からは見えない内側では揺るがしがたい絆で結束している、そんな家族像を新しい連帯の素案として提示している。一家の絆の位置を占めるのは、既製品のイデオロギーではない、どこかにあるかもしれないけれど誰も見たことのない、国家やイデオロギーの圏域から離れた想像の島、「パイパティローマ」だ*1。たぶん、その島は各人べつべつの形に想像されている。彼らの間には符合も暗合もない。けれども、島=絆を想像するという行為を通じて、たぶんこの家族の絆は生まれている。手垢のついた連帯や既製の共同性を拒否し、島=絆があるということを想像することが絆を創造する、あるいは絆を育むことに繋がる、というような新しいつながりの模索をこの小説は描こうとしているのだろう。もっといえば、所与の絆がないことをポジティブに捉えて、その空白を想像するという行為自体を絆として見せようとしているのかもしれない。穿ちすぎか。
 横の関係だけではなくて、本人は望んでいないのに親父を他人が勝手に神話化し、歴史化していく、という縦の関係についても気になる*2。が、そんなことよりも、アムロナミエの祖父はアムロナミヘイ、というのは嘘だよね、というところのほうが気になる。ギャグ、ということでいいんだよね。

*1:http://www.kt.rim.or.jp/~yami/hateruma/paipateroma.html

*2:「パイパティローマ」が波照間島の神話として流布していることを勘案すると、水平的な連帯の可否は神話的な縦の関係によって予め担保されている、ということになるのではないか。そうすると、その神話は血筋や家柄といった所与の垂直軸の類推としてあるのか、それとも選び取る選択の対象としてあるのか、というところが気になる。気にはなるがあんまり考えながら読んでいないのでどうだったか思い出せない。どちらかといえば、所与のもののような感じで描かれていたような気がする。だとすれば、反体制的な「パイパティローマ」の神話も、親父が批判する靖国イデオロギーと機能的には変わらないのではないか。ひとりごと。と思ったが、少し行き過ぎ。頭の体操。