髑髏の窟

 どこの墓地もちょうど閉園しているので文人の墓参りは叶わない(墓参りというより、ロダンを始めとする彫刻の観賞にいくようなものらしいが)。嫁さんはモンサンミッシェル行を乞う。でも、パリくんだりまで来てもっともおもしろそうなところにまだ行っていない。
 カタコンブに。
 カタコンブがどうやって生まれたかについては、パリ―都市の記憶を探る (ちくま新書)を始め、鹿島茂もそれに類する本を書いているし、類書は両手に余るほどあるので、フランス語を解さないわたしごときがわざわざ語るまでもない。ただわたしは、カタコンブを、なぜかノートルダム大聖堂付属のクリプトと比べてしまう。
 


 
 ノートルダム大聖堂付属クリプトの学芸員おじさんが説明するところによれば、セーヌの中洲であるシテ島こそパリ発祥の地であるという。
 ――ほらみてごらん、シテ島はなんだかパリの目玉みたいだろう。ここからまず左岸に、そして右岸に都市が生まれていったのさ――
 できすぎな話のように思えた。「シテ」という島の名前も恐らくは "city" を意味するのだろうし、19世紀以降の文化地政学の類がだいたい後だしじゃんけんで都合よく地勢や位置関係や気候までも神話化していくのを思えば、シテ島がパリの起源として認められたのはそう古い話ではないのだろう、と思う。
 果たしてシテ島のクリプトはパンテオンのそれのような聖別された墓の集合体ではなく、ヨーロッパのどこにでもあるローマの遺構だった。発見、掘削が進んだのは20世紀に入ってからだというし、このクリプトが公開されたのはわたしが生まれたあとのこと。
 ユゴーの小説が忘却の彼方にあったノートルダム大聖堂に光を当て、その復旧が始まったのは、19世紀も3分の1が過ぎた頃だった。シテ島が持つ「高さ」はそれまでほとんど忘れられていた。20世紀に発見されるまで、シテ島に「深さ」はなかった。意地悪な見方をすれば、シテ島の高さと深さに、わざわざ振り返るほど潤沢な「歴史」があるわけではない。*1

 
 
 パリを建設していくためにたくさんの石が切り出されていった。そして地下の石切り場に広がる広大な空白を埋めたのがカタコンブだった。
 階段を数十段降ると、石の世界。年間を通じて一定の温度に保たれた構内は、ひんやりと冷たい。観光客の足許を慮ってのことか、石灰岩の天井と左右の壁とは明らかに触感が異なる粘土質の土が、靴の裏にグリップを生みだす。歩みを進めるたびに、愁雲のようにじめじめした地面は歩みを引き留めようとする。産道のよう。

 
 そのうち神秘的な蒼を湛えた井戸に出くわす。


 地獄が神とともに滅んだ時代、石の螺旋に巻かれた蒼の下に「真実」はない。ソローのように蒼を覗きこんでも、涯てなき蒼の茫洋を夢に見るだけ。ポオのように蒼を無視すれば、石の面を凝視して事件は解決する。果たして、産道の先には、ごつごつした骨だけの死屍累々が待っていた。

 
 石の壁とはまたべつの、カルシウムの壁が現れる。触ると微かに湿り気と粘り気を帯びている。


 『オペラ座の怪人』の地下迷宮を生んだ想像力の奔流を、パリの地下を埋める骨の密度が堰き止めている。ぎっしりと敷き詰められ、積み上げられた骨は、人間の死がもつ儚さや残酷さからはほど遠い。ヴァニタスでもメメント・モリでもない。むしろそれは堅固な厚みを打ち立てている。
 ドゥルーズ=ガタリがいうように、死はひとりの人間を無限の海から刳り抜き、その輪郭を限定する力としての側面をもつだろう。死は、ひとを有限へと殺ぐ見えない鑿だ。
 しかしながら、躰をもつ死は、人間存在を無限の野に放り出す。骸が示す人間を還元した「かたち」がいったんリセットされ、脱臼し、組み替えられ、蒐集されるとき、死は途轍もない躰を備えているように見える。死は無限の建築に化体し、地下に横たわったまま水平に向かって聳える。死した躰はいくらでも継ぎ足されるだろうし、決して目減りすることはない。
 「死は、学ぶことも教えることもできない」(デリダ)。死は到来する(はず)のものだからだ。だからいつも死は体験(ex-perience)することしかできない。
 そして、死屍累々の建築は臨死体験を誘う。無限の死は生を有限に囲うことなく、無限に劈く。見上げるべき神も見下ろすクリプトも、平坦な道の脇を固める髑髏と骨の塵芥に呑まれている。死は終わりではなく、始まりでもなく、始まりや終わりを引き延ばす迂回路になる。通り道になる。パサージュになる。時間も空間も見失わせる隧道になる。
 パサージュがその歴史的使命をおえたとき、すべてがパサージュになった。ベンヤミンのぐずぐずした歴史意識は、今や歴史のこごりになった。リニアモーターカーの車窓風景を、上空一万フィートから見下ろすウラル山脈の瘤のように眺める。変わらない。モデルニテは飛行機から見下ろすウラル山脈の瘤。カタコンブの建築。 




 
 伽藍のような天井を見上げて、垂直を思う。エッフェル塔に、地下鉄。倦まず弛まず足を踏み出す近代を支えていたあの背骨。だが垂直は横になっている。エッフェル塔は橋だ。バルトの解釈に飛躍はない。
 姿勢が悪いと注意された生徒の生身の背に差し込まれた、あの竹定規のひんやりとした感触はどこにいったのだろう。屹立していた彫刻は、横臥するトランジに台座を譲った。支えはどこにあるのだろう。高みは、深みは。
 横臥した背骨と竹定規を探り当てよう。ペンとキーボードのダウジングで。

 
 外に出て、髑髏隧道に漂う瘴気よりも少々酸味の強いパリの汚れた空気を肺に詰め、本格的なイタリアンのピザを腹にぎゅうぎゅうに詰め、セーヌ方面ならどこであれ足の向くまま足を運ぶ。だからしばらく迷う。鉄道の高架や横並びのマンションを斜に眺め、オーストラリア人の女性が経営する英語塾に駆けこんでいく子供たちを見送り、たくさんの掘り返された地面の裂け目を避けていくと、わたしはセーヌ左岸沿いを歩いている。
 三代目シェイクスピア&カンパニー書店に立ち寄る。
 一階は英語書籍専門の本屋。
 二階は本を愛する若者たちが集うリーディングルーム。誰かが鳴らす下手くそなオルガンと下手くそな歌の響きのなかで、古書読みに耽る人たちがいる。
 書店の隣は初版本を扱う古書肆。ガラスケースに収められた『ユリシーズ』もある。
 たくさんのインディアンといくらかのポオと少しの鯨を除けば、人跡未踏の砂漠だったパリのアメリカ世界に、雨あられと慈雨をもたらした古式ゆかしき内陸の汀で、いくらかの敬意とお布施を古書に払う。
 現在の場所を訪れたヘンリー・ミラーに。今は亡き場所を訪れたフォークナーに。
 とりわけパリで印刷されパリで出版され外国で流通することのなかった『サンクチュアリ』のペーパーバックは、古色に褪せてなお美しい。

 翌日、ラファイエットでいくらか買い物をし、それからカフェで通行人を眺めて日中を過ごし、夕刻、遅れてやってきたアパートの世話人の「火事に遭った」というくだらない言い訳に苦く笑いながら、別れを惜しまずせいせいと飛行機に乗った。
 シャルル・ド・ゴールのいいところ。それは出発ロビーにも喫煙スペースがあるところ。

*1:もちろん、カエサルの『ガリア戦記』にも記述があるようだし、実際にローマの遺構があるわけだから、シテ島がパリ建設の端緒であり、「パリの中心」である、という主張に間違いはないかもしれないが。