旅を忘れた膂人

 

 
 帰宅する。
 我が家へ帰ってくると、たいていほっとするものなのに、どこか落ち着かない。眠れない。
 機内での生命活動といえば『千のプラトー』を100ページほど読み、機内食を箸でつつき、赤ワインと薬を飲み、後ろからわたしの背もたれをがんがんと叩き、脅迫のつもりなのか懇願のつもりなのかわたしを睨みつけ「プリーズ」と言ってくる神経質なフランス女を無視して構わずシートを全力でぶったおしたぐらいのもの(鶏舎が嫌なら身銭をいくらか切ってでも豚舎に行くべき)。
 ほとんどの時間、わたしは意識を喪っていた。眠っていた。そういうわけで帰り途の記憶がほとんどない。まるで旅などなかったかのよう。
 

 文化人類学者のドキュメントに、ホームとフィールドのあいだ、往路・復路の記録が含まれていなかったことはつとに知られている。ジェイムズ・クリフォードによる一連の人類学批判は未だに記憶に新しい。文化人類学は「厚い記述」をするくせに、旅については記録しない。彼らはフィールドを「わたし」から離れたものとして抽象化しようとする。学術論文に記述するにしては、旅は生々しすぎるのだろうか。それとも頭で考えるには旅があまりに退屈だからだろうか。
 旅はフィールドへの/からの無機質で退屈でときどき不愉快な、躰の移動。
 そういうものだ。


 
 「わたしは旅や冒険が嫌いだ」
 某有名ジーンズブランドと同名の人類学者による言葉。旅や冒険にジーンズはつきものだというのに。
 わたしは旅の最後までジーンズは穿いていた。しかし少々間延びしたあの残酷なバゲッジクレームの時間に、わたしは旅をピックアップするのを忘れたのだろうか。戦利品としてのお土産が詰まったトランクで両手は塞がってしまっていた。放っておけば、旅はベルトコンベヤーの上を流れて暗渠の奥に消えてしまう。
 スーザン・スチュアートのいうとおり、(帝国主義者かどうかはさて措いて)旅人はトロフィーを集めたがる生きもの。でもトロフィーは旅とは関係ない。どちらかといえば、扱いを誤ればセキュリティチェックで規格外のリキッドとして没収されてしまうような、そう、旅は目に余る目薬のようなもの。
 
 
 サンドウィッチを頬張ったり、生ゴミを地階のゴミ庫へ運んだり、大聖堂の壁面をカメラのフレームで切りとったり、物乞いにタバコを恵んだり、壁にひっかけられた小便や吐瀉物を横目に見ながら路上の糞を飛び越えたり、タクシーの運転手がひっきりなしに電話をしながら後部席のこちらにウィンクをしてきたり・・・。
 どれもフィールドでの戦利品ばかり。トロフィー。とても制御できない想起の乱反射を誘い、たくさんの記憶を乱交させるトロフィー。
 旅はすぐに記憶から消えてしまうもの。それでも、わたしはせめて旅を家に持ち帰るべきだと思う。
 

 旅で浮腫んだ足裏の苦労が畳に報われるとき、旅は退屈な日常生活と少しだけ奇妙な日々とのあいだを架橋する。そして刹那、旅は消えてしまう。ただの空き地が残る。かわりに日常に立ち向かう活力が、旅の立ち退いた半畳の廃墟から滾滾と湧いてくる。トロフィーは倦怠と退屈と疲労を励ますために、遠くから微笑みかけるだろう。そうやって日常は続いていく。トロフィーが空き地を挟んだ向こうにあるからこそ日常は続いていく。
 旅が立ち退いた痕は、小さな空き地から茫洋たる草原へ、さらに見通しの利かない砂漠になり、トロフィーは霞んで目に映らなくなる。だからまた旅に出る。
 そういうものだ。
 

 わたしが眠れないのは、旅についてほとんど覚えていないから。きっとそうだろう。
 ホームとパリ。ふたつの壁龕の凹面同士を合わせた窪みのなかにわたしはいる。両の手に包み込まれた醜い蛾のように、やがてわたしは押し潰されるだろう。
 だからわたしは旅になる。
 アキレス腱が痛い。