主夫はマルチチュード?


今頃、クリスマスディナーの光景を載せてみる。特段、たいしたことはないのだろうが、記念に。2人だからこの程度で。
10時ごろ起床。朝食後、ゴミだし。幼児のような我が書体を呪いつつ、年賀状を片付けていく。台所を掃く。洗濯。今日は若干曇天模様。本日はクリームシチューの予定。
 山口百恵の変わりようにびっくり(2ちゃんより)。人間は他者のまなざしによって主体になる、とは誰か(フーコーだっけ?)がいっていたことだが、彼女はパブリックな視線を意識することがなくなってしまったから、こういう姿になったのだろうか。「昔はきれいだったのに・・・」的な話はどこにでもある。うちのおかんが好個の例だ。
 内田樹非常にいいことを書いている。そうだそうだー!

 さて、いい加減『マルチチュード』からおさらばしようと思って、一気に読む。途中から飽きてしまって、久しぶりに開いた。正直苦行。発展型じゃなくて並行型の論理展開は、大概金太郎飴になりがち。『帝国』もそうだったが、ずっと同じことを言われているような気がして。とはいえ、ネグリ&ハートの意向はよくわかった。柄谷行人書評で指摘しているように、現在の状況が<帝国>的なのではなく、むしろ「帝国主義的」な方向へと逆行しつつある、というのが彼らの最近の認識のようだ。『帝国』では、<帝国>が現在構成されているのか、それともまだなのかはっきりしなかったが、『マルチチュード』では、<帝国>を形作るであろう要素は偏在しているものの、まだそれは明確に形になっていない、というスタンスを採っているようにみえる(しかし、これからの国際政治がたちゆくためには、<帝国>という主権形態が構成されなければならない、という立場は崩していない)。だから、『マルチチュード』は現実に関わる政治学というより、理想形について思索する哲学ということになる(序文で断っている)。
 さてはて、では<帝国>と対峙する<マルチチュード>とは何なのか?

  1. マルチチュード>は、中心を持たない無定形の新たな主権形態<帝国>とセットの概念である。<帝国>がなければ<マルチチュード>もない。<帝国>が形成されるに従って、<マルチチュード>も構成されなければならず、後者の政治的介入によって前者は修正を受ける(この点は、実のところ「卵と鶏の話」になりかねないのだが、『帝国』では<帝国>が先で、『マルチチュード』では<マルチチュード>が先、というような書き方になっているような気もする)。
  2. <帝国>と<マルチチュード>の関係は、対称関係でも非対称関係でもない。ネグリ&ハートによれば、<帝国>は暴力や戦争を普遍化する、いいかえれば生=政治的な形で支配を推し進めるが(securityの論理)、<マルチチュード>は<帝国>のやり方をまねたり(テロや暴動)、その支配を甘んじて受けることもしない。そのオルタナティヴを見出すらしい(ネグリ&ハートは「俺らで決めるんじゃなくて、みんなで決めようよ」と議論を棚上げしているが)。
  3. マルチチュード>は、絶対的民主主義の理念を体現する。<マルチチュード>は労働を通じて、直接的に自らを代表し、政治に参画する。世界をつなげる<帝国>の支配の道具としての資本は、実は労働者たちの見えない労働力に深く依存している。だから、働くということはすなわち政治的な行為であり、それは<マルチチュード>という民によってなされる民主主義ということになる。
  4. マルチチュード>は、特異性と<共>(the common)によって特徴付けられる。<マルチチュード>は総体として全域的に把握できる単一の集合体ではない。なぜなら、それはそれぞればらばらの人々から構成されており、それらを束ねる単一の本質的特徴など存在しないからだ(特異性)。むしろ<マルチチュード>は、行為や行動によって規定される。<帝国>に立ち向かう行動によって、つまり<共>によって<マルチチュード>は雑種性と共同性とを同時に表現するのである。

 政治哲学的には、『マルチチュード』は大きな問題提起をしているように思う。政治哲学の領域において、国民国家というのは主権を考える上でどうしても乗り越えられない壁だったからだ。国家、それともアナーキズム、つまり主権があるかないかという二元論でしか主権を考えることの出来なかった政治哲学の領域に、『マルチチュード』は単一のものに代表されることのない主権概念を提示した。それが実現可能かどうかははなはだ疑問だが、哲学的に大きな成果なのかもしれない(ネグリ&ハートの概括によれば。政治哲学専門の方が聞いたらどう思うかは知らない)。
 文化批評、政治学の観点からみると、『マルチチュード』は特に目新しい問題提起はしていない。基本的にネグリ&ハートが目指しているのは、「差異が問題にならない世界」だからだ(差異を消去するのではない)。とどのつまり、これは論理的には脱構築である。<マルチチュード>は、文化やアイデンティティの政治で90年代以降議論されてきた「多文化主義」の理想とほぼ矛盾することなく重なる。異なるのは、「多文化主義」が比較的ローカルな問題に留まるのに対して、<マルチチュード>はそれを敷衍する形でグローバルに展開する。理念としては正しい。しかし、問題は「差異が問題にならない世界」をどうやって作るのか、というところにある。いまだ突破口は見当たらない。
マルチチュード>の最大の問題点は、それが<帝国>という仮想敵なしには成立しない、というところにある。ネグリ&ハートは、<帝国>に対抗する術を明確には示していないが、<マルチチュード>は<帝国>と対峙することで始めて意味を持つ以上、<帝国>の論理の中でしか活動できないのではないか。労働がいかに資本に介入する潜勢力を秘めていようと、それ自体に<帝国>に対する武器として意味づけを施すのは無理があるのではないだろうか。戦争を常態化させる<帝国>の中にいる<マルチチュード>は、ネグリ&ハートが否定する戦争に対する戦争(テロのような)、あるいは非暴力・不服従(キングやガンディーのような)のどちらかを選ばなければならないのではないだろうか。私には、結局<マルチチュード>自体が<帝国>と同じように敵を作り出すことで成り立っているように思える。それに、彼らは両者の弁証法的関係を否定するが、どうあがいても弁証法的にならざるをえないのではないだろうか。
まあ、いずれにしても主夫がマルチチュードに入れてもらえるのなら、マルチチュード万歳!危うく団地妻にアイデンティファイするところだった・・・。