砂川判決とは何か

磯崎陽輔総理補佐官HP「憲法解釈変更の4つのキーワード」(7/19) http://isozaki-office.jp/ について論じてみたいと思う。適宜、砂川判決全文→http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19591216.O1J.html も参照されたい。なおわたしは法学者でも憲法学者でもないため、以下の論述には事実誤認が含まれる可能性があることを予め付記しておく。誤記も含め、ご叱正を仰ぐ。

まず、磯崎氏は砂川判決を司法による自衛のための措置の認定と解釈、個別的自衛権集団的自衛権の区別は国際法(実際は国連憲章)の概念を持ち込んだものであるとし、その区別自体に疑義を呈している。国際情勢が変化している今、我が国の法制には関係のない「個別的自衛権」という概念の壁をこえて、砂川判決に即したより包括的な「自衛のための措置」をどのようにしたら最小限度にとどめることができるのかという問題を焦点にして論議を深めることが重要だと磯崎氏は言う。しかしこれは、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」とする砂川判決と矛盾する。砂川判決は自衛権を漠然とした概念ではなく、国連憲章に照らして定義していることをまずは忘れてはならない。
このような砂川判決の恣意的な読解はひとまず措く。磯崎氏がもっともこだわるのは、砂川判決の「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」という箇所である。この箇所をもって、磯崎氏は国際情勢の変化に応じて自衛のための措置を解釈しなおすことができる、と考えている。だからこそ磯崎氏は、安保法制が従来の憲法解釈と齟齬をきたすかどうか、「形式的に」合憲かどうかを問うのではなく、具体的な国際情勢の変化が認められれば憲法の解釈変更は「適当」であり、したがって安保関連法案も合憲になる、という論法を重視するのであろう。ひとまず砂川判決が解釈改憲を認め、次にそれを必要とする国際情勢の変化が仮にあると仮定しよう。しかしその場合、砂川判決の「国際情勢の実情に即応して適当と認められるもの」には、「この国の平和と安全を維持するための安全保障」という目的と、「その目的を達するにふさわしい方式又は手段」という限定がついていることを忘れてはならない。問われるべきは次の三点である。まず国際情勢の変化が具体的に喫緊のものとして本当に存在するのか。次に本法案は平和と安全を維持するためのものなのかどうか。さらに本法案はその目的を達するのにふさわしいのかどうか。政府は、従来の日米安保体制では「国際情勢の実情」に対応できなくなったことを説得したうえで、その手段が平和と安全を維持する目的としてふさわしいことを国民に明示する必要がある。おそらくはだからこそ、今頃になって中国脅威論がさかんに取り沙汰されているのだろう。しかしながら、仮想敵国が中国であり、過日の総理ご自身の説明における「離れ」に該当する地域が尖閣近海のプラントだというのであれば、もはや新法制は不要であり、従前の自衛のための措置で十分だとわたしは考える。
以上は、砂川判決が憲法解釈を国際情勢の変化に応じて柔軟に変更し、適宜自衛のための措置を講じることができるという司法判断であり、かつその司法判断が立法に対するお墨付きを与える根拠である、という磯崎氏が設定する前提を尊重した議論である。だが砂川判決は果たしてそのような種類のものなのだろうか。というのも砂川判決は、日米安全保障条約という国際的な法秩序に対する判断能力を留保しているからだ。

ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

安全保障条約の違憲性を判断するにあたり、砂川判決は、案件が明白に違憲であると断言できないので、今回は国内法の司法権を管轄するに過ぎない司法の守備範囲を超える、とやや及び腰に述べている。国際間の条約を結ぶ内閣とそれを承認する国会がまずは当該事案の一次的な責を担う。しかし看過できないのは、最終的には「主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべき」としている部分だろう。しかもその主権在民の原則は、安全保障条約およびそれに基づく政府のふるまいが違憲かどうかが前提となる事案以外の場合にも当てはまるとしている。つまりここで司法は、あらゆる政治的判断の最終審級は、立法府でも司法でもなく国民である、と述べている。政治判断を下すのは国民であり、司法は政治的判断には関与しない。この政治的判断を国民が支持していることを前提とし、司法はこれを追認するしかない。司法の能力の限界を自認するからこそ最高裁は、東京高裁への差し戻しを命じる事由を、「裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し」たため、と明言しているのだ。
さらに、砂川判決は安全保障条約という国家間で締結された条約に基づく米軍の駐留が合憲か否かを判断した判決であって、国内法を対象としたものではない。したがって、ただいま参議院特別委員会で審議中の国内法である安保関連法案の合憲性の根拠として、砂川判決を持ち出すのははなはだ不適当だと言わざるを得ない。国内法となれば、当然ながら司法の判断能力の範疇にある。だからこそ大多数の憲法学者が司法の判断以前に同法案を違憲であると考えている事実は重い。
とどめを刺しておくなら、前段で述べた砂川判決における「国際情勢の実情」とは磯崎氏が念頭に置いておられるような具体的な国外の脅威を指したものではない。政治判断に対する司法の限界を明言する判決文の趣旨に即して読めば、これは安保条約を政治判断によって認めざるをえない当時の日米関係を指したものであることは明白だろう。したがって、砂川判決の「国際情勢の実情」を軍事的国際貢献や中国脅威論へと直結させるのはミスリードである。砂川判決を持ち出すのであれば、今回もアメリカに頼まれたので仕方なくやらざるを得ないということをはっきりと明言すべきだろう。ただし、今回の安保関連法案は国際条約ではなく、国内法であるという点は忘れてはならない。砂川判決よりも、同じく国内法のイラク特措法PKO協力法との比較が望ましいことは言うまでもない。「国際情勢の実情」の文言を抜き出して恣意的に転用するよりも、戦地の実情を議論したほうがきっとはるかに有意義だろう。それとも砂川判決の事案と同じように、この新法制も国内法を装った事実上の国際条約なのだろうか。だとしたら、これは司法の範疇を超えた政治的判断の領域に属する。そしてその政治的判断を最終的にゆだねられているのは政府でも国会でもない。国民である。
砂川判決は、日米安保条約を積極的に合憲と判断したのではない。この判決は、政治的判断を扱う能力に欠けるために、消極的にこれを合憲と判断せざるをえない司法の限界を詳らかにし、あらゆる政治判断における国民の能力を支持している。