光あれ

 予報によると一部を除いて九州はほぼ全滅だった初日の出。天孫降臨の地には、無事陽光ならぬ閃光注ぐ。
 分厚い雲壁の背後で粛々と存在を照明すること小一時間、たこやきを頬張りながらホット珈琲で暖をとるわれらの前に一条、と呼ぶにはあまりに太い、光の道が現われた。浜辺から洋上へと道の推移を辿ると、正視を許さない無色の光源が、雲の頂に威風堂々陣取っていた。あまりに神々しい閃光に撃たれた我々は、持てるものは携帯電話のカメラを間に挟み、持たざるものは原始的に掌を間に入れて、対象との間に安全な距離を確保する。迂闊にも持たざるものに組み入れられた私は、ここに画像を掲揚することはできないが、力及ばずともその容貌を形容し、カレンダーの標語に相応しい今年一年の世界平和(ウソをつけ)と個人的で邪な念を連呼するのであった。アーメン。
 帰宅して酒で精神的沐浴。酩酊状態のまま、一日はあっというまに過ぎるのであった。そして、次の一年も。
 就寝前に見たハイビジョン特集「宇宙船ウェイクアップコール」
http://cgi4.nhk.or.jp/hensei/program/p.cgi?area=001&date=2008-01-01&ch=21&eid=33173。一時的とはいえ地球外生命体とあいなる宇宙飛行士の方々は、作業に従事する中ふと地球のことを忘れそうになるそうな。無重力状態の帰属意識に碇を結わえ、引力を生み出すのがウェイクアップコール。音楽はここで帰属意識と緩やかな相関関係を結ぶ。
 以下、記憶を辿りながらの妄想。 
 イデオロギー闘争において、宇宙は自らが超越的な場に立つことを宣言するための道具だったはず。冷戦終結を経て、地上に超越を理念的にではあっても可能としていた近代構造は瓦解した。いまや、超越が理念的に可能な場は、宇宙空間しかない。ウェイクアップコールの一曲として流れる「イマジン」がリアリティをもつのは、地球を「グローバル」に俯瞰できる宇宙空間のみ。公共性の理念形は宇宙にしかない。宇宙は、科学技術の可能性の傍らで思想の可能性を紡ぐ。現実と理念とを切り結ぶ「ウェイクアップコール」という界面に、思想史的な端緒を見出す仕事が見てみたい。宇宙は、科学技術と思想とを同じ言説の近傍に係累する場なのだと、鈍く直感した。