フュリオサの憂鬱

帰りの機内でも『マッド・マックス』を見た。少々感想を。
水や石油が枯渇した条件下での統治は、物質的条件に対する権力を握ることに依存する。イモータン・ジョーは民衆の資源への崇拝を象徴化した存在にすぎない。そしてフュリオサの凱旋は、同じ資源崇拝を基盤とした体制を現状維持する以上の意味を持たないだろう。イモータンの死体を群衆が引きちぎりさらっていく様はまず間違いなく中世西欧世界の聖遺物争奪戦に準拠する。だがこのばらばらの断片と化すイモータンこそ、物質が民衆の信仰の「資源」であるということの残酷なアレゴリーであるように思える。「イモータン」という宗教を体現したジョーの死後、この「イモータン」の衣鉢を継ぎ、体現すること。フュリオサに他の選択肢はない。
現実から離れてみよう。男のいない女だけの共同体「緑の土地」への回帰を目指したフュリオサの夢が夢足りえたのは、まさにその地が新しい生活の物質的基盤となりうると思われたからだろう。そしてその夢を挫くのも緑の土地の成れの果て、灰色の汚泥という物質的な現実だった。フュリオサのユートピア的なフェミニズムは物質的現実の前に敗北する。イモータンの支配する土地へのUターンを勧めるマックスの提案、並びにその提案を無条件に飲むフュリオサの決断は、夢見られた女のユートピアの廃棄であるとともに、女を収奪するシステムの内部にしか人間が生きるための糧、資源、物質的条件はない、という現実の追認でもある。
結局、夢は現実に差し戻される。いや、拠り所となる物質なくして夢など見ることはできない。振り返れば冒頭、滝のごとく降り注ぐ水に狂喜乱舞する群衆に、イモータンが水を欲望しすぎることの危険を説くシーンがあった。イモータンは民衆が信じている「モノ」を正確に理解し、危惧していたのではないか。イモータンは「モノ」を代表しているに過ぎない。*1だからイモータンを倒し凱旋するフュリオサに民衆が期待するのは、これまでと変わらず物質を制御する体制をそのまま引き継ぐこと。変化は望まれていない。革命はなにひとつ起きていない。フュリオサの凱旋は、かつてイモータンが体制を打ち立てた即位の瞬間を反復・継承しているに過ぎない。信仰の起点となる物質的条件は、この世界においてもともと限られている。フュリオサの改革は、物質の安定供給を願う保守的な大衆の前に限定的なものにとどまるだろう。戦争はなくならない。残された限りある資源を奪い合う世界である限り、争いが絶えることはないだろう。*2豊富な資源のある世界でも戦争は絶えないのだから。女性を資源として収奪する体制の変革は困難を極める。男もこの資源戦争のための資源として収奪されているのだから。結局、幸せになれるのは、男女の別なく資源を制御する力をもつものの周辺にいる人々に限られる。ユートピアへの夢から覚めたフュリオサがこの現実に気づくのはこれからだろう。足早に凱旋の歓呼の輪から立ち去るマックスだけが、この堂々巡りを予感しているように思えた。イモータン・ジョーは、この決してなくなることのない堂々巡りを体現している。いや、むしろイモータン・ジョーはこの不死(immortal)の体制につけられた名前なのだろう。フュリオサもまた、この不死の体制を束の間代表し、信仰を生み出す「モノ」に過ぎない。

*1:イモータンの支配は知に裏打ちされた言語能力にも依っている。彼はしもべである「戦争機械」ウォーボーイズを "mediocre" と形容するが、ウォーボーイズはこれを賞賛の言葉だと思っている。死地に向かう仲間を称えるとき、彼らは "mediocre" と叫ぶ。

*2:皮肉にも「聖遺物」となるジョーの死体をばらばらにして奪い合う群衆の狂喜乱舞のさまは、この終わりなき資源争奪戦争の縮図となっている。