鶏の唐揚げを作ったが、原産地がブラジル。幼いころ、我が家にいた七面鳥や鶏、そして何かのお祝いのたびごとにやってくる屠殺の場面をなぜか思い出す。ブラジルでも、『バベル』に出てくるメキシカンのような、豪快なバラシ方をするのだろうか。
週末に見た映画。
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映画は最盛期にあったフォーディズム、とりわけ自動車産業が大不況を境に失墜するというト書きと馬主が息子を自動車事故で失うという逸話を描き、自動車と競馬、あるいはテクノロジーと自然という対比関係を意識しているように見受けられる。近代化に夢が見れなくなった時代に、何に夢を見るか。この1930年代あたりは、文明の曲がり角で、とてもノスタルジックな時代でもあった。そういう時代に、文明に幻滅した人々は馬に、とりわけ競争馬としては明らかに小さいシービスケットに、そうした袋小路を脱する希望を託した、ということか。まあ、競馬は、昔懐かしいロマンの入れ物というよりは、近代化の過程そのものだったりするのだけども。
ちなみに、自動車と競馬のつながりは、別の意味で正しい。アメリカ競馬は馬の抽象的な強さを追い求めるイギリス競馬とは異なり、具体的で合理的な速さを追求したので、速さを競うには都合のいいオーバルコースが主流。アメリカ全土に点在する合理的な競馬場のいくつかは、やがて自動車産業の発展にしたがって、そのままのトラック形態で自動車レース場に移行し、現在に至る。そういうわけで、アメリカの、たとえばインディのような自動車レースは単にぐるぐる回るだけ。日本競馬は基本的にアメリカ式。自動車レース場はそうでもないのにね。
後者は少し前に鬼籍に入ったレイ・チャールズの生涯を、盲目とその帰結としての孤独、そしてその克服に焦点を当てて語るという趣向。目が見えていたころの色彩豊かな映像が、盲目の闇の中にフラッシュバックとなって介入してくる。そうした心的外傷を隠蔽するために、ヘロインに溺れ、天涯孤独の身から逃れるために各地に設けた「拡大家族」との関係も破綻していく。最終的にはヘロイン中毒克服と心的外傷の寛解が同期し、輝かしい「余生」を足早に紹介して、閉じる。自伝か何かが原作としてあるのだろうか。レイの秘密について何も知らなかったので、驚いた。
無駄な心情吐露や感傷的なおしゃべりは皆無で、そのほとんどは彼自身の音楽に昇華され、映画全体にミュージカルのような雰囲気を与えている。その音自体は一部を除けばおそらく吹き替えなのだろうが、演奏風景や身振りと音楽が見事にマッチしていて、違和感は感じない。音楽も非常に魅力的。ゴスペルとブルーズをミックスしたり、カントリーを変奏したりと、前人未到の新境地を次々と開拓し、かつそれがマニアックな層に留まるのではなく、ヒットチャートの上位をにぎわすあたりが、この人の偉大さか。
政治色はほとんど排除されている。例外として、レイがジョージア州での公演を人種隔離政策に反対して取りやめにするシーンがある。結果として、彼はジョージア州での公演を半永久的に禁止される*1。しかし、彼が公演に反対するのは、黒人が彼の音楽に合わせて踊ることができない席をあてがわれているからであり、それ以上でも以下でもない。その後、ライブ中、観客をステージに上げ、躍らせる場面が出てくるが、バンドの横で白人も黒人も男女問わず踊りまくる。逆説的ではあるが、彼の音楽は、どんな政治にも無関心であるがゆえに、ときにどんな政治よりも政治的であるように映る。彼の音楽は政治とは無縁の祝祭空間だからこそ、政治がそこに介入しようとするとき、どんな政治よりも政治的に働き、政治を拒絶する。政治の介入を拒否する政治というか。彼のメジャーデビュー曲が示すとおり、"mess around"。肌の色にかかわらず、誰でも騒ぎ踊れたほうが楽しいじゃないか。音楽なんて「その程度」のもの。けれど、「その程度」であることを徹底したレイは、どんな政治よりもでかいことを成し遂げたのではなかろうか。レイは映画の封切りを目前に他界した。