編集文献学

明星聖子+納富信留編『テクストとは何か: 編集文献学入門』。単一の作者や決定版、作者の真意なるものは(理論的にではなく)実証的に存在しない。作者の意図や作品という概念を根本から問い直す一冊。訳書『グーテンベルグからグーグルへ』の続編といっていい。
問うべきテクストはひとつではなく、複数存在している。だからテクストを前にした論者は、テクストの選択とその限界に自覚的でなければならない。
作者の意図も同様。作者の意図は、書く前、書いているとき、書いた後、死ぬ前、など局面に応じて移り変わるし、意図を示す証拠を残していたとしてもそれを宛てる相手によっても変化するかもしれない(経験的にもよくわかるはず)。
作者なるものは、複数の意図の間で移ろう一貫性を欠いた存在であると同時に、編集者や読者、近親者、書写人、印刷工、劇団員など無数の人間が共住する場所でもある。実在する作家を名指しつつ、著者名はそうしたさまざまな条件を便宜的に統合し、市場を流通するブランド名として機能する(作者機能)。
このように、テクストも作者もそれらに対する読者の解釈も、権利上、単一のものには限定されない。しかしだからこそ、読む営みは常に豊穣となりうる。
本書の俎上に上るのはプラトンゲーテ、聖書、チョーサー、ムージルシェイクスピアワーグナー、フォークナー、ニーチェカフカ。文学だけではない。哲学もオペラも神学も、あらゆるテクストを問い直さなければならない。ドイツ文献学の先端に学ぶ。

フュリオサの憂鬱

帰りの機内でも『マッド・マックス』を見た。少々感想を。
水や石油が枯渇した条件下での統治は、物質的条件に対する権力を握ることに依存する。イモータン・ジョーは民衆の資源への崇拝を象徴化した存在にすぎない。そしてフュリオサの凱旋は、同じ資源崇拝を基盤とした体制を現状維持する以上の意味を持たないだろう。イモータンの死体を群衆が引きちぎりさらっていく様はまず間違いなく中世西欧世界の聖遺物争奪戦に準拠する。だがこのばらばらの断片と化すイモータンこそ、物質が民衆の信仰の「資源」であるということの残酷なアレゴリーであるように思える。「イモータン」という宗教を体現したジョーの死後、この「イモータン」の衣鉢を継ぎ、体現すること。フュリオサに他の選択肢はない。
現実から離れてみよう。男のいない女だけの共同体「緑の土地」への回帰を目指したフュリオサの夢が夢足りえたのは、まさにその地が新しい生活の物質的基盤となりうると思われたからだろう。そしてその夢を挫くのも緑の土地の成れの果て、灰色の汚泥という物質的な現実だった。フュリオサのユートピア的なフェミニズムは物質的現実の前に敗北する。イモータンの支配する土地へのUターンを勧めるマックスの提案、並びにその提案を無条件に飲むフュリオサの決断は、夢見られた女のユートピアの廃棄であるとともに、女を収奪するシステムの内部にしか人間が生きるための糧、資源、物質的条件はない、という現実の追認でもある。
結局、夢は現実に差し戻される。いや、拠り所となる物質なくして夢など見ることはできない。振り返れば冒頭、滝のごとく降り注ぐ水に狂喜乱舞する群衆に、イモータンが水を欲望しすぎることの危険を説くシーンがあった。イモータンは民衆が信じている「モノ」を正確に理解し、危惧していたのではないか。イモータンは「モノ」を代表しているに過ぎない。*1だからイモータンを倒し凱旋するフュリオサに民衆が期待するのは、これまでと変わらず物質を制御する体制をそのまま引き継ぐこと。変化は望まれていない。革命はなにひとつ起きていない。フュリオサの凱旋は、かつてイモータンが体制を打ち立てた即位の瞬間を反復・継承しているに過ぎない。信仰の起点となる物質的条件は、この世界においてもともと限られている。フュリオサの改革は、物質の安定供給を願う保守的な大衆の前に限定的なものにとどまるだろう。戦争はなくならない。残された限りある資源を奪い合う世界である限り、争いが絶えることはないだろう。*2豊富な資源のある世界でも戦争は絶えないのだから。女性を資源として収奪する体制の変革は困難を極める。男もこの資源戦争のための資源として収奪されているのだから。結局、幸せになれるのは、男女の別なく資源を制御する力をもつものの周辺にいる人々に限られる。ユートピアへの夢から覚めたフュリオサがこの現実に気づくのはこれからだろう。足早に凱旋の歓呼の輪から立ち去るマックスだけが、この堂々巡りを予感しているように思えた。イモータン・ジョーは、この決してなくなることのない堂々巡りを体現している。いや、むしろイモータン・ジョーはこの不死(immortal)の体制につけられた名前なのだろう。フュリオサもまた、この不死の体制を束の間代表し、信仰を生み出す「モノ」に過ぎない。

*1:イモータンの支配は知に裏打ちされた言語能力にも依っている。彼はしもべである「戦争機械」ウォーボーイズを "mediocre" と形容するが、ウォーボーイズはこれを賞賛の言葉だと思っている。死地に向かう仲間を称えるとき、彼らは "mediocre" と叫ぶ。

*2:皮肉にも「聖遺物」となるジョーの死体をばらばらにして奪い合う群衆の狂喜乱舞のさまは、この終わりなき資源争奪戦争の縮図となっている。

想起の文化

思想 2015年 08 月号 [雑誌]

思想 2015年 08 月号 [雑誌]

目次→http://www.iwanami.co.jp/shiso/

帰省中に岩波の『思想八月号 想起の文化特集』を通読した。収録論文の概要は以下の通り。
記憶と歴史をめぐる内外の研究動向を概観した栗津論文。
忘却モデルよりも想起モデルのほうが未来志向であることを論証するアスマン論文。
求心的な慰霊地をもたない海洋上の慰霊という離散的な想起のモデルを提示する西村論文。
日中戦争における対日協力者がいかにして記憶されてきたか「順口溜」という歌やオーラルヒストリーから探る石井論文。
変わりゆくひめゆり平和祈念資料館の展示法を解説する普天間論文。
ホロコーストの記憶を遠心的に街路に配置し、空間的な想起経験として構築するドイツの試みを紹介する安川論文。
広島原爆ドームの保存反対から保存に至る過程と補修が終わった後原爆投下後の時間までが凝固するというアイロニーを記述する福間論文。
ソ連の対独戦戦勝を記念する「スターリングラード」の記念碑のありかたをめぐる論争を扱う前田論文。
ジェラール・ノワリエル『フランスという坩堝』を中心にして、サルコジに代表される移民第一世代の「移民現象が国民的な記憶の正当な一部であるという考え方」と新移民に対して烙印を押すという逆説的な操作を問題にする大中論文。
植民地主義の歴史が生み出すマリアナ諸島チャモロ人の記憶について論じるカマチョ論文。
ボスニア、特にサラエボにおける内戦と民族・宗教の多様性、及びパレスチナ人がイスラエル人として同化していく動向にネーションの問題系を超える複雑な集団アイデンティティの問いをみる立田論文。
リクール『歴史・記憶・忘却』が歴史と記憶の問題系を包括的に扱いバランスをとることを目指した大著であることを指摘、グローバルな記憶、外部記憶、そして過去の死者に対する負債の問題を再考する必要性を説く佐藤論文。
この佐藤論文の末尾における負債の倫理は、広島原爆慰霊碑に刻まされた「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の碑文を退け、むしろいつまでも眠れない死者との共闘、慰霊や鎮魂では済まない想起の倫理の要請を説く末木の巻頭言http://www.iwanami.co.jp/shiso/1096/kotoba.html へと差し戻され、過去ではなく死者に対する負債の倫理を想起しなおすことになるだろう。
最近「ごはんをつくって待ってくれるおかあさん」を反戦の動機のひとつとして挙げた大学生のスピーチが議論を呼んだのは記憶に新しい。前田論文における以下の論述は、このような素朴な心情がはらむ政治性を想起・再考するうえで参考になるだろう。

マーティン・メイリアによると、独ソ戦開始まもなく社会主義国家防衛から「母なるロシア」防衛へとイデオロギー上の転換が生じた。例えば、独ソ戦反帝国主義戦争ではなく、「大祖国戦争」と名付けた点にもそれが現れている。一八一二年のナポレオン戦争「祖国戦争」は、国民的戦争としてロシア人の記憶に深く刻まれていた。実際、西部の国境は呆気なく突破され、ドイツ軍の支配下に置かれたため、前線となったのはロシア中部地帯だった。スターリン「国民は我々共産主義者のためには戦わないが、母なるロシアのためには戦う」とはっきり認識しており、社会主義のための戦いというスローガンを捨て、国民の愛国心に訴えることにしたのである。この転換を物語るのが、一九四一年に現れた国民に志願を訴えるプロパガンダポスター「母なる母国が呼んでいる」である。このときまで、ソヴィエト政権は決して寓意的女性の視覚イメージを用いなかった。初期ソヴィエトポスターの図像学的分析で知られるヴィクトリア・ボンネルは、母なるロシアMatushka Rossiiaの像を帝政ロシア二月革命政府が好んでいたため、ソヴィエト政権としては避けざるをえなかったと指摘している。新しい国家のシンボルは過去との決別を意味すべきだったからである。にもかかわらず、勝利の女神に端を発する寓意的女性像を復活せしめたことは、国家存亡の危機に瀕していたことを如実に示す。(163-64 強調筆者)

砂川判決とは何か

磯崎陽輔総理補佐官HP「憲法解釈変更の4つのキーワード」(7/19) http://isozaki-office.jp/ について論じてみたいと思う。適宜、砂川判決全文→http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19591216.O1J.html も参照されたい。なおわたしは法学者でも憲法学者でもないため、以下の論述には事実誤認が含まれる可能性があることを予め付記しておく。誤記も含め、ご叱正を仰ぐ。

まず、磯崎氏は砂川判決を司法による自衛のための措置の認定と解釈、個別的自衛権集団的自衛権の区別は国際法(実際は国連憲章)の概念を持ち込んだものであるとし、その区別自体に疑義を呈している。国際情勢が変化している今、我が国の法制には関係のない「個別的自衛権」という概念の壁をこえて、砂川判決に即したより包括的な「自衛のための措置」をどのようにしたら最小限度にとどめることができるのかという問題を焦点にして論議を深めることが重要だと磯崎氏は言う。しかしこれは、「国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である」とする砂川判決と矛盾する。砂川判決は自衛権を漠然とした概念ではなく、国連憲章に照らして定義していることをまずは忘れてはならない。
このような砂川判決の恣意的な読解はひとまず措く。磯崎氏がもっともこだわるのは、砂川判決の「わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる」という箇所である。この箇所をもって、磯崎氏は国際情勢の変化に応じて自衛のための措置を解釈しなおすことができる、と考えている。だからこそ磯崎氏は、安保法制が従来の憲法解釈と齟齬をきたすかどうか、「形式的に」合憲かどうかを問うのではなく、具体的な国際情勢の変化が認められれば憲法の解釈変更は「適当」であり、したがって安保関連法案も合憲になる、という論法を重視するのであろう。ひとまず砂川判決が解釈改憲を認め、次にそれを必要とする国際情勢の変化が仮にあると仮定しよう。しかしその場合、砂川判決の「国際情勢の実情に即応して適当と認められるもの」には、「この国の平和と安全を維持するための安全保障」という目的と、「その目的を達するにふさわしい方式又は手段」という限定がついていることを忘れてはならない。問われるべきは次の三点である。まず国際情勢の変化が具体的に喫緊のものとして本当に存在するのか。次に本法案は平和と安全を維持するためのものなのかどうか。さらに本法案はその目的を達するのにふさわしいのかどうか。政府は、従来の日米安保体制では「国際情勢の実情」に対応できなくなったことを説得したうえで、その手段が平和と安全を維持する目的としてふさわしいことを国民に明示する必要がある。おそらくはだからこそ、今頃になって中国脅威論がさかんに取り沙汰されているのだろう。しかしながら、仮想敵国が中国であり、過日の総理ご自身の説明における「離れ」に該当する地域が尖閣近海のプラントだというのであれば、もはや新法制は不要であり、従前の自衛のための措置で十分だとわたしは考える。
以上は、砂川判決が憲法解釈を国際情勢の変化に応じて柔軟に変更し、適宜自衛のための措置を講じることができるという司法判断であり、かつその司法判断が立法に対するお墨付きを与える根拠である、という磯崎氏が設定する前提を尊重した議論である。だが砂川判決は果たしてそのような種類のものなのだろうか。というのも砂川判決は、日米安全保障条約という国際的な法秩序に対する判断能力を留保しているからだ。

ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的判断に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

安全保障条約の違憲性を判断するにあたり、砂川判決は、案件が明白に違憲であると断言できないので、今回は国内法の司法権を管轄するに過ぎない司法の守備範囲を超える、とやや及び腰に述べている。国際間の条約を結ぶ内閣とそれを承認する国会がまずは当該事案の一次的な責を担う。しかし看過できないのは、最終的には「主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべき」としている部分だろう。しかもその主権在民の原則は、安全保障条約およびそれに基づく政府のふるまいが違憲かどうかが前提となる事案以外の場合にも当てはまるとしている。つまりここで司法は、あらゆる政治的判断の最終審級は、立法府でも司法でもなく国民である、と述べている。政治判断を下すのは国民であり、司法は政治的判断には関与しない。この政治的判断を国民が支持していることを前提とし、司法はこれを追認するしかない。司法の能力の限界を自認するからこそ最高裁は、東京高裁への差し戻しを命じる事由を、「裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し」たため、と明言しているのだ。
さらに、砂川判決は安全保障条約という国家間で締結された条約に基づく米軍の駐留が合憲か否かを判断した判決であって、国内法を対象としたものではない。したがって、ただいま参議院特別委員会で審議中の国内法である安保関連法案の合憲性の根拠として、砂川判決を持ち出すのははなはだ不適当だと言わざるを得ない。国内法となれば、当然ながら司法の判断能力の範疇にある。だからこそ大多数の憲法学者が司法の判断以前に同法案を違憲であると考えている事実は重い。
とどめを刺しておくなら、前段で述べた砂川判決における「国際情勢の実情」とは磯崎氏が念頭に置いておられるような具体的な国外の脅威を指したものではない。政治判断に対する司法の限界を明言する判決文の趣旨に即して読めば、これは安保条約を政治判断によって認めざるをえない当時の日米関係を指したものであることは明白だろう。したがって、砂川判決の「国際情勢の実情」を軍事的国際貢献や中国脅威論へと直結させるのはミスリードである。砂川判決を持ち出すのであれば、今回もアメリカに頼まれたので仕方なくやらざるを得ないということをはっきりと明言すべきだろう。ただし、今回の安保関連法案は国際条約ではなく、国内法であるという点は忘れてはならない。砂川判決よりも、同じく国内法のイラク特措法PKO協力法との比較が望ましいことは言うまでもない。「国際情勢の実情」の文言を抜き出して恣意的に転用するよりも、戦地の実情を議論したほうがきっとはるかに有意義だろう。それとも砂川判決の事案と同じように、この新法制も国内法を装った事実上の国際条約なのだろうか。だとしたら、これは司法の範疇を超えた政治的判断の領域に属する。そしてその政治的判断を最終的にゆだねられているのは政府でも国会でもない。国民である。
砂川判決は、日米安保条約を積極的に合憲と判断したのではない。この判決は、政治的判断を扱う能力に欠けるために、消極的にこれを合憲と判断せざるをえない司法の限界を詳らかにし、あらゆる政治判断における国民の能力を支持している。

孤児列車

孤児列車

クライン『孤児列車』。一九世紀中庸から一九三〇年代ぐらいまで行われていた、都会の孤児を田舎の家に養子縁組する「孤児列車」という運動に取材して、現代の孤児と過去の孤児との交流を描く小説。終盤、かなり「アメリカン」な方向に振れていってしまうのが残念だが(だから全米ベストセラーなのだろうけど)、孤児の苦境を丁寧に描く前半は真に迫っている。孤児はこどもとして扱われることは極めてまれで、実際は安価な労働力としてもらわれていった。孤児には孤児院での生活を遥かに越える困難が待ち受けていたということを知るという一点において価値のある一冊。


震えのある女 ─ 私の神経の物語

震えのある女 ─ 私の神経の物語

ハストヴェット『震えのある女』。講演中、喋りはいたって冷静だし、頭もクリアなのに、首から下が勝手に震え出してしまう。ある日突然そんな症状に見舞われたハストヴェットは、「震える女」という内なる他者のことを知ろうと試みる。脳科学精神分析、哲学、文學、認知科学等の文献を渉猟、あてどない彷徨を続けるその過程はさながら九十九折りのごとし。一九世紀的ヒステリーや心身二元論らを退け、制御の及ばない症状を厄介な隣人として扱うのではなく、そこに自ら飛び込み同一化する。偏頭痛を忌避するのではなく偏頭痛持ちの自分を認めることで頭痛とうまく付き合えるようになった経験をもつ著者は、震えさえも同じように自分の一部として認める道を選ぶ。『ひとはみな妄想する』におけるラカンとは別の路線からアプローチを重ね、別解を導き出す。意識や心、情動論をめぐる重厚な思索はスリリングで、「闘病記」という帯はミスリーディング。小説や他のエッセーも読んでみたくなる傑作。

ニュー・マテリアリズムは週末に

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号 特集=新しい唯物論

現代思想 2015年6月号』
http://www.seidosha.co.jp/index.php?9784791713011 


■連載――●科学者の散歩道●第一九回
  「法の支配」と「ワンダー科学」 「やしの実」 / 佐藤文隆

■連載――●家族・性・市場●第一一二回
  生の現代のために・3 / 立岩真也




新しい唯物論   

【討議1】
生活の分解のために / 篠原雅武+藤原辰史


【物質と思考】
二一世紀のための生哲学 / E・サッカー 島田貴史訳
フェミニズム唯物論・自由 / E・グロス 清水知子訳
クィアエコロジー / T・モートン 篠原雅武訳
「新しい唯物論方法序説(素描) / 藤本一勇


【インタビュー】
建築のマテリアリズム / 磯崎新 日埜直彦(聞き手)


【何処を目指すのか】
唯物論をめぐる応答 特異な個体だけからなる存在論とはいかなるものでありうるか / M・デランダ 近藤和敬訳
思弁的唯物論のラフスケッチ わたしたちは如何にして相関の外へ出られるか / Q・メイヤスー 黒木萬代訳


【討議2】
兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン


【分散と制御】
加速と隷属 機械状資本論ノート / 水嶋一憲
拡張する表皮 複数化するスクリーンから透明なインターフェイスへ / 難波阿丹
プロトコル 脱中心化以降のコントロールはいかに作動するのか / A・ギャロウェイ 松谷容作・増田展大訳 北野圭介監訳


【批判】
脱-様相と無-様相 様相中心主義批判 / 江川隆男
実在を巡って シャヴィロとハーマン、そしてホワイトヘッドへの批判 / 森元斎


【空間と生命】
人工の都市/匿名の都市 / 篠原雅武
予測と予知、技術的特異点と生命的特異点 / 原島大輔



■研究手帖
そこにある相関主義 / 仲山ひふみ

現代思想』新しい唯物論特集。人間を中心とした哲学に対する根本的な批判を加える、あるいはそのような哲学からの脱却を志向する思弁的傾向と、ひとまずまとめることができるかもしれない。しかしこれはポストヒューマンの思想とは毛色が異なる。新しい唯物論は、人間の内部から批判を加える脱構築的なポストヒューマンの思想というよりは、そのような人間的思考がそもそも及ばない、情動や数学、気候、プロトコルに司られた無機的な、非人間的な、モノの思想(materialism)を志向する。一括りにはできそうもない多様な群れなので、この一群を総括するには相当な力技が要求されると思うし、おそらく総括など受けつけないだろう(暫定的な展望としては、本書中の「兆候としてのモノ ネオアニミズム、メディア、資本の時間 / 北野圭介+A・ザルテン」や『現代思想』一月号における「思弁的実在論と新しい唯物論 / 千葉雅也 岡嶋隆佑(聞き手)」を参照するとよいだろう)。なのでここでは本書と十把一絡げになったモノとしての読後感をつづる。

新しい唯物論の中心的なテーマとして取り上げられるのは絶滅や気候変動だ。だが絶滅や気候変動の話となると、どうしても大きな画期的な出来事を思い浮かべてしまう。しかし本特集に寄せられた論稿の群れを読む限り、むしろ出来事の微細さにこそ注意を払うべきであるように思う。出来事は大きな地殻変動によってもたらされるものではなく、ごく微細な出来事、それゆえに感知するのが困難な震えのようなものの堆積そのものである。それは群発的ながら体感できないような予震のようなものかもしれない。あるいは予震のみで、本震や余震はやってこないかもしれない。いや、そもそも地震とはすべて予震なのかもしれない。アビ・ヴァールブルグが知覚の限界を超えた地震計たらんとしたのは、このような人間主義を超えたモノの次元、情念というマテリアルの領域においてだった、ととらえ直すこともできるだろう。この限りにおいて出来事がとりかえしのつかないものであるのは、それが物理的に大き過ぎて手に余るものだからではない。それはわたしたちの認識に穴を穿つ、あるいは穴があることを指し示してしまうからこそとりかえしがつかない。震源はいつもわたしのなかにある。人間だと信じているわたしの生活のなかで、わたしというモノは揺れる。わたしは人間ではなくモノだから震える。
絶滅や気候変動について想像するということは、人間の終局(たとえば核戦争)を想像することだとよく言われる。環境保護や食糧問題は、そうした終局を防ぐための弥縫策を紡ぐ領域だ。だがそれでは手垢にまみれた終末論と違いはない。ここで問われるべきは、人間などそもそもいない世界、わたしがモノとして在る世界である。出来事が属する場所があるとするなら、それはこのような非人間的なモノのパラレルワールドにほかならない。絶滅や気候変動は、(アウシュヴィッツ絶滅収容所のような)人間にとっての出来事ではない。それは人間のいない、わたしたちが人間であることをカッコに入れ(この点で新しい唯物論現象学を裏返した思弁、つまりモノ自体をカッコに入れるのではなく現象をカッコに入れる思弁だと言える。そのためかつて現象学に向けられた批判が新しい唯物論や思弁的実在論にも当てはまる部分はあるのかもしれない)、モノとして生きていることを想像するための體(からだ)をひらく、いまだ到来したことのない出来事である。そして人間の「命」を起点とはしない、モノとしての生を想像するという投機こそが想像と呼ばれる。出来事が属する非人間的なモノの世界に、認識と経験を裂きながら架橋する想像力の場は仮設される。より過激に言えば、人間について想像することはもはや想像ではない。それは旧知の認識を上書きするに過ぎない。モノであること、モノとともにあることを想像するときにだけ、わたしは想像力を働かせている。思弁的=投機的想像力はモノに宿っている。
出来事(event)は現代思想における鍵語のひとつとしてすでにその地位を確立している。出来事は、過去‐現在‐未来という、はっきりと見える現在を起点に展開される時間軸、及びその常識的時間とともに継起する常識的な認識、あるいは「想定内」という予測可能な範疇と「想定外」とを距てる、人間の想定そのものを暈してご破算にしてしまう。出来事は命あるわたしが考えうる限界を超えるものであり、わたしには経験しえないはずの出来事でなければ出来事しての力を持ちえない。「それ」は、わたしの想定を裏切って不意に到来する。未知の「それ」はわたしのなかに出来する(take place)。出来事は人間であるわたしとは無関係に存在していて、わたしの人間としての生とはかけ離れたものであるかのように映る。けれどもわたしは実際は、出来事の(兆候の)積み重ねのなかに生きている。わたしたちが常識的で変化に乏しいと感じている日常は、実のところ、一回限りの、人間であるわたしが望んだことのない、モノとしてのわたしに到来する出来事が描く軌跡の破線なのかもしれない。この意味で出来事は、時間の延長線上にある目的(the end)や予定調和的な終末(the end)とはいかなる関係をも結ばない。出来事はむしろ、ありふれた週末(weekend)のようなものだ。ただし破局や非知として生きる週末、人間的な命の終末ではなく新しいモノの生がそこから披けてくるような週末。認識も経験もできない、モノとしての想像力とともに営まれている週末。
週末の生の営みは、人間的な命の思考では把握できない。新しい唯物論では、人間的なネットワーク、相関主義に対する批判が先鋭化する。人間的な関係、すなわち主客の関係で把握できる関係を超えたinter-actionなきintra-action、あるいはap-prehensionなきprehensionという無媒介的な「抱握」が主題となる。環境という人間を取り囲むべき緩衝材はもうない。剥き出しのエコロジー、環境なき共生というモノの世界で、わたしたちは直接出来事にさらされている。人間がいないということは、わたしとあなたとを区別することや、自分を外から隔て覆い隠しそれを内部として確保することができないということなのだから。

〔中略〕特に大事なのは、人を治めるに当たって、その見る力や知る力を狭い範囲に留めた神は、なんと恵み深い方なんだろう、ということだ。ほんとうは何千何万もの危険の真っただなかを歩いていて、それが見えるようになれば、人の心は錯乱し、気力は衰えてしまうだろう。人が落ち着き払っていられるのは、ものごとの真相から目を閉ざされ、身を囲んでいる危険をまったく知らないせいなんだ。(『ロビンソン・クルーソー』武田将明・訳 277)

モノを対象化しモノを媒介する人間のいない世界における無媒介性は、形相と質料や有機物/無機物といった、人間が思考するために用いられる「概念」をも廃棄する。思想はマテリアルとなる。形而上学における概念と物理学における物質は分け隔てなく同じマテリアルの位相に共生する。この新しい唯物論において、思想は微細な出来事のマテリアルの一員となる。モノは思想のマテリアルであり、思想はまた別の思想のマテリアルである。人間のいない世界にあっては、モノを対象として把握するための「概念」はその特権的な地位を失う。どんな思弁だろうとモノはモノでしかない。週末は終末について思考するのではなく、犇めきあうモノたちのなかに埋没しながら生きられる。週末は次の週、ただし先週とはまったく無関係な新たな週のはじまりでもある。ウィークデイに働いた人間は週末に休み、思弁的、あるいは投機的想像力は週末に働く。
だがそれでもなお、命ある人間という有限性から、たくさんの先人がのこしてきた清濁混流する毛細状の脈絡から、わたしは自由にはなれない。わたしは終末と週末のあいだで裂かれている。有限性から離れれば離れるほど、有限性は強くわたしを引き留める。モノとしての生という斥力は、わたしの命という引力を挫きはしない。わたしは死ぬ。それは目的論的で予定調和的ながら、しかし確実な終末(the end)だ。セクシーな生と凡庸な命のあいだで、人間としてのわたしは細々と営まれていくのだろう。命が尽きた誰かの生をマテリアルとして貪りながら。命が尽きたあとのわたしの生、誰かの思想のマテリアルとして生きるわたしを想像、あるいは思弁しながら。命はかすかに震えている、何某かの予震として震えている。

でもそのとき、あることを忘れていたのにあとで気がついた。すなわち、空腹はライオンをも手なずけるということを。三、四日、餌をあげずに、あの山羊を穴に閉じこめ、そのあと少し水を飲ませ、その次に少し穀物を食べさせていれば、あいつも子山羊のように懐いたはずだった。山羊は、大切にされればすごく人懐こくなる、利口な動物なのだ。(210)


ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

ロビンソン・クルーソー (河出文庫)

鑑別診断とあなたらしさを生きること

ラカンのわかりにくさを、度重なるラカン自身による精神分析のアップデートに求め、その十重二十重に仮設された言説群をひとつひとつ解きほぐし、撚れ・捻じれはそのままに、一本の経糸としてラカン思想を取り出して見せる労作。糸口となるのは神経症と精神病の別を判定する鑑別診断という問題系。以下、無手勝流のリーディング。
まずはわたし自身の印象をもとに、精神分析のおおまかなイメージをつかんでみよう。
人間のモデルを未病の神経症患者に求めたフロイトは、神経症と精神病とを鑑別したのち、治る見込みのある神経症患者だけを治療した。フロイトの代名詞、「エディプス・コンプレックス」は、神経症の心的構造を解釈する枠組みだった。精神病患者はこの原父殺しに端を発する物語のなかに居場所を持たない。
ラカンも基本線はフロイトと変わりない。言語のように構造化された無意識の(象徴界の)主体に働きかけることがラカン精神分析の基軸であり、大他者を欠きシニフィアンの連鎖から排除された精神病者は理論上の例外を構成する。エディプスの物語と去勢に始まるシニフィアンの運動からつまはじきにされた精神病患者は、並外れた人間、あるいは非‐人間という居心地の悪い場所にとどまり続ける。
だがわれわれにはドゥルーズ=ガタリがいた。この混声的批評家による精神分析批判は、精神病者の並外れた欲望を、普通の人間の欲望の配電図のなかに押しこめようとする暴力に向かった。ドゥルーズ=ガタリ神経症に代わり未病の「分裂病」を新しい人間のモデルに据え、(言語ではなく)欲望のレベルにおいて人間は、人間という概念そのものを解体していく存在であることを示した。これは一種の鑑別診断の否定だった。さらにはフェミニズム批評もここに重なる。ファルスをはじめとする男性中心主義的な精神分析な用語法、及びエディプスコンプレックスから排除された女性の不在を指弾するフェミニズム批評は、ヒステリー患者という女性表象をエディプスの男根主義的図式によって再生産する女性嫌悪の装置として攻撃した。さらにアメリカの自我心理学者やカウンセラーが事情を複雑化させる。父親に性的虐待を受けたとする幼女時代の記憶を患者に植え付け、父親を娘が訴えるという裁判が頻発した現象は、精神分析に対する悪評へと飛び火する。とどめに精神病理の世界において、精神疾患の症状を緩和、もしくは寛解に導く薬が登場し、病名のカタログに対応する薬の投与に終始する医療が進展している現状は、鑑別診断の放棄という問題を超え、精神分析をほとんど亡き者にするところまで脅かしている。精神分析の危機は、あらゆる角度から迫ってきている。
つい最近まで、精神分析に関する一般的な理解はおおむね以上のようなものだったはずだ。もしかしたら熱心なラカン読者は、並外れた欲望の世界に迫る晩年のラカンをそれ以前の言語論的構造主義ラカンから切り離し、前者の可能性を称揚していたかもしれない。だがそこでは、ジジェク等を経由して人口に膾炙した「サントーム」や対象aが、いわゆるシニフィアン鏡像段階といった批評理論の教科書に登場するタームとほとんど同時並列的に用いられる。まるで一貫した、全体化されたラカンの思想が存在するかのように圧縮されたラカンは、その難解さを語彙のレベルにとどめたまま、構造はいたってシンプルになってポピュラー化することになる。かくしてラカンの著作を十把一からげに扱う批評は、人間に意識できない無意識のすべてを、ひいてはあまねく社会や世界を、縦横無尽に解釈できる、機械仕掛けの神のような観すら呈することになった。この単純化こそラカンのわかりにくさの淵源である。
本書が鑑別診断に的を絞るのは、それが精神分析の中枢を貫く思想であると同時に、以上のような通俗的理解と衒学的かつご都合主義的ラカン主義者が犯している過誤を糺すうえでもっとも効果がみこめるテーマであるからだろう。まず鑑別診断の変遷を追うことで明らかになるのは、ラカンはひとりではない、ということだ。ラカンの思想を時期や概念に応じて切り分けながら相互に対決させる「ラカンラカン」と呼ばれるこの現代ラカン派による観測法は、ラカンのあらゆる著作を一貫したものとして扱う傾向に対する歯止めとなるだろう。だがこの「ラカンラカン」は鑑別診断においてのみ有効な方法ではなく、ほかのどのような概念においても見られる現象だろう。より重要なのは、鑑別診断という定点が、精神分析の哲学ではなく臨床における形式である、という点にある。ここで論じられるのはすなわち、ラカンに受け継がれたフロイトの鑑別診断という形式が精神分析という臨床の現場における試行錯誤の末に厳密さを増し、果てはその言語的形式を打ち破る、言語の「物質的次元」に至るまでの苦闘を明らかにするものだということだ。
鑑別診断は、神経症/精神病の別を診断する形式である。フロイトが臨床の場に持ち込んだ自由連想法と呼ばれる、患者自身が意識していない無意識のレベルを分析医が解釈していくプロセスは、神経症の患者の妄想を解釈する上で有効だった。しかし精神病の患者は分析医の知(無意識の世界を解読する力)を想定することができない。つまり精神病患者の場合、医者と患者の健全な転移関係が生まれないために、医者は無意識の主体としての患者と言語を介してうまく接することができない。それどころか、フロイトの臨床法では精神病患者をかえって悪化させてしまう可能性が高い。だからこそフロイトは治療を開始する前に鑑別診断を行ったのだった。つまり、神経症/精神病の区別こそが、精神分析の前提となる形式だということだ。
ラカンはこのフロイトの鑑別診断を引き継ぎながら、構造主義言語学を応用することにより、言語の働きを前景化したモデルを打ち立てる。このモデルはどのように神経症患者と精神病患者は異なっているのか、という鑑別診断を徹底するためのモデルだった。想像界象徴界現実界という三すくみの構造がある。言語獲得以前の前エディプス的母子関係を表す想像界、去勢後の痕跡である大他者(父の名という原シニフィアン)を中心にしたシニフィアンの連鎖が展開される無意識の主体の位相である象徴界、そして象徴界から予め排除された、言語モデルとして構造化されることのない残余の現実界フロイトの臨床の舞台となるのはこの中でも象徴界だった。ラカンはこの象徴界に大他者(父の名)が存在しているかどうかが、神経症と精神病の境目であると考えた。誤解を恐れずに短絡化してしまえば、精神病の患者の場合、母子関係に介入し、生まれる前からすでに存在する世界を受け入れるように迫る父が存在しないために、父に代表される自分とは異なる他者に由来するはずの知を想定できないということだ。だからこそ、精神病患者は治療できない。裏返せば、象徴界のなかに父の居場所が認められる神経症患者は治療できる。その父の場所を取り囲むシニフィアンを、父へと接続するように臨床の場で導いてあげればよいというわけだ。

しかしラカン神経症患者にも精神病患者と同様、臨床の場において症状を悪化させてしまう例を見出した。これは鑑別診断の失敗なのか、それとも鑑別診断の形式の不備なのか。そもそもフロイトやその他の精神分析医が報告している症例は、果たして正しく鑑別診断を行った結果なのか。過去の症例を詳しく見直していくうちに、ラカン象徴界を中心とした言語モデルを次第に疑うようになる。そもそも言語と同じように構造化された無意識という想定は無根拠な妄想なのではないか。いや、より正確に言えば、言語は言語によってしか説明できない、つまり究極的な意味を欠いている以上、言語の究極的な支えとなるものは欠けている、その欠如を妄想によって補うことによって人は生きているのではないか。その意味で、神経症にも精神病にも大他者は等しく存在している。ただしその大他者は失調している。人間が生まれる前から存在しており、そこへの適応を期待される象徴界の秩序は予め破たんしている。そのため、この破たんを覆い隠す妄想の用い方が神経症と精神病とを分けるのではないか。症状を説明することに重きを置く限り、父性的存在の失調を反復することになる。重要なのは症状を言語のモデルに解消することではなく、言語の向こう側に、言語からつまはじきにされている領域にある症状と患者の生とを妄想によって接続することではないだろうか。この世は狂っている。この狂った世の中にどのようにして適応するのか、その方法こそが問われることになる。この時点で、ラカンは無意識の主体としての患者の位置を修正する。患者は、狂った大他者の欠如を埋める欲望や妄想の主体となる。すなわち社会への適応の方法を知っているのは患者自身に他ならない。ただ患者自身がそのことを知らない、あるいは容認できないだけなのだ。かくしてこの世界に欠けているものをそれぞれのやり方で埋める方法を患者自身がすでに知っている、患者はすでにこの社会に適応しているということを患者自身に認めさせることが治療のゴールとなる。それは患者ひとりひとりの特異性、類例のない妄想や欲望を、患者自身が認知し、症状そのものを患者自身の特異な生として生きるということだ。
あなたはすでに社会の中に生きている。すでに社会に適応し、あなただけの居場所を持っている。それは社会が求めるような規範的な適応の仕方ではないのかもしれない。しかし社会のあり方自体が欠如を抱えた歪んだものである以上、あなたの適応の流儀にみられる逸脱は、この不完全な社会を考えるためのヒントになる。あなたの抱える妄想は、社会の壁龕にはめ込まれたあなたなりの生の証しなのだ。特異な生を認めること、その特異な「あなたの」生の主体となることがあなたには必要だ。規範的な共通言語や欲望に自分を再適応させるのではなく。
それでもなお臨床において鑑別診断が必要とされる理由はなんだろうか。一般化を拒む特異なシニフィアンにケースバイケースで対処する以上のことがなぜ必要なのか。なぜ神経症と精神病という古めかしい区分を、なお現代ラカン派は手放さないのだろうか。
それはおそらく欲望や享楽の次元にたどり着くためには、それでもなお言語が必要だからだろう。示差的な一般言語の運動のみが、特異なシニフィアンの所在とその機能を際立たせるからだろう。ただし言葉は選ばなくてはならない。鑑別診断とは、言語を用いて言語の物質的様相を探り当てる以前に、どのような種類の言語を用いるのかを決める、道具選びの予備的段階だと言えるだろう。解釈不可能な症状は、適切な言葉を探針として用いる限りにおいて浮き彫りになる。この意味で、精神分析は解釈を放棄したわけではない。鑑別診断という予備的な解釈によって選ばれ担保された分析の言語だけが、患者を分析の主体として構成できる。ちょうどジョイスの特異な言語の理解しがたさが、読者の知りうる言語による解釈の挫折を通じて理解されるように。解釈が硬い岩盤にぶつかって撥ね付けられるとき、分析家の言語はその核を包むために変質を余儀なくされる。精神分析は、言語の通時態を変質しながら生き延びてきた。脱構築は二項対立を突き崩すためのたんなる方法ではない。それは言語の限界を知りながらも、敢えてそれを信じる、信じすぎてしまうような情熱である。精神分析が生き延びるとすれば、鑑別診断という枠組み、その境界画定による限界の設定を墨守しながら、それでもなお限界を突破し続けるような臨床の言葉を探す営み、としてだろう。
かくして鑑別診断はひとつの思想となる。決して既知の言葉では間に合わない、臨床という試練にさらされ、撚れて捻じれて何度も切れそうになりながら、それでもなお連綿と紡がれてきた一本のしぶとい糸として。